ケータイ辞書JLogosロゴ 苗ケ島村(近世)


群馬県>宮城村

 江戸期〜明治22年の村名。勢多郡のうち。はじめ大胡【おおご】藩領,元和2年前橋藩領,明和6年幕府領,のち下野【しもつけ】佐野藩領。村高は,「寛文郷帳」657石余うち田方484石余・畑方173石余,「元禄郷帳」同高,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに989石余。元禄13年の水帳によると,田35町5反余・畑15町6反余・屋敷2町7反余(宮城村誌)。享保11年の五人組改帳によれば,家数140・人数687(同前)。文化3年の産業帳控(苗ケ島区有文書/宮城村誌)によると,用水は粕川や自然出水・溜井などから取り入れ,畑は夏作には大豆・小豆,秋作には粟・稗などを作り,余ったところに野菜を作るとあり,養蚕にも活用し,各戸で糸にしたのち大間々町へ出して売った。木綿糸・蚕糸を取るのは女の仕事で,男は山林に入って薪をつくり,大間々町や前橋町へ出していた。また,伊勢崎町から飛脚屋が来て江戸への便りを出していた。同年の村明細帳(同前)によれば,戸数129,人数445うち男251・女194。湯之沢の温泉は当村の5人で管理し,毎年2月下旬から10月上旬までは湯を沸かして湯治人を受け入れた。湯治人の料金は世帯道具や座敷を含めて1人1日28文で,痛風・筋骨痛・できもの・切疵・痔病などへの効用がうたわれた。湯之沢の湯権については,三夜沢村との間に争論があり互いに権利を主張したが,元禄6年幕府の裁許により,湯坪7軒を当村の百姓が支配していることで当村の湯権が認められた。幕末の改革組合村高帳によれば,大間々町寄場組合に属し,高989石余,家数101。明治4年佐野県,群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県,同11年群馬県南勢多郡に所属。江戸期から明治期にかけての寺子屋・私塾は4か所。金剛寺の寺子屋は,享和年間から明治8年にかけて580人余の筆子がいた。名主石橋重郎兵衛宅では,文久年間から明治初年まで20人余の筆子に読み・書きを中心に教導した。斎藤多須久が主催した私塾は慶応3年から明治26年まで開かれ,この間国語・漢文・手習いなどを中心に400人余の子弟を教えた。また,天保3年名主東宮佐兵衛宅に開かれた東宮塾は,その子佐七へと引き継がれ,明治44年まで550人余の男女筆子に読み・書き・算盤を教導した。同22年宮城村の大字となる。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7283741
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ