ケータイ辞書JLogosロゴ 中後閑村(近世)


群馬県>安中市

 江戸期〜明治22年の村名。碓氷郡のうち。安中【あんなか】藩領。検地は慶長6年と寛文3・4年などに実施され,村高は,「寛文郷帳」で890石余うち田方493石余・畑方397石余,「元禄郷帳」890石余,「天保郷帳」「旧高旧領」とも同高。名主は内堀家と安藤家で世襲。当村は宝永7年から中山道松井田宿の定助郷を勤めた。鎮守は中後閑神社。寺院には禅宗宝泉寺と真言宗正蓮寺があったが,いずれも廃寺となっている。後閑城落城200年後の寛政9年,旧後閑城の家臣の子孫といわれる者が発起人となって城跡に庚申塚をつくり,百庚申として4月に祭礼を行い,現在でも続いているという(後閑の歴史)。明和7年の家数213(同前)。幕末の改革組合村高帳では,松井田宿寄場組合に属し,高890石余,家数259。明治4年安中県,群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県に所属。「郡村誌」によれば,戸数212・人数910(男475・女435),牛馬72,民業は男が農業196戸,女で養蚕・生糸・筵織など従事305人,物産は生糸96貫・絹150匹・藁筵50駄。明治6年宝泉寺を仮用して中後閑小学校を開設,「郡村誌」による生徒数は男64・女23。同22年後閑村の大字となる。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7283798
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ