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- 中宿村(近世)とは
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![]() | 中宿村(近世) 江戸期~明治8年の村名水内【みのち】郡のうち伊勢川(ソブ川)の扇状地と滝沢川右岸に位置する往古黒川村の町田付近,北国往還の道筋にあった(上水内郡村誌/県庁所蔵文書)のち現在地に移った明専寺遺跡から縄文時代の竪穴住居・土壙跡が発掘された(明専寺・茶臼山遺跡報告書)字明専寺は現在の信濃町柏原明専寺が慶長11年から同18年までここにあったという名残の地名はじめ幕府領,天和2年坂木藩領,元禄15年幕府領(明和5~7年越後高田藩預り地),寛政4年石見浜田藩領,文政6年幕府領,天保7年陸奥棚倉藩領,同8年からは幕府領(慶応2年松代藩預り地)村高は,「正保書上」150石,「元禄郷帳」238石余,「天保郷帳」249石余,「旧高旧領」252石余延宝8年頃までに裏新田村を分村延宝8年の家数28・人数111(中宿共有文書)産土神は伊勢社延宝年間の検地帳によると伊勢免2石余となっている(同前)曹洞宗妙専寺は元禄元年開祖寛貞和尚の創建で境内5畝余,無檀家(明治5年寺院本末一派明細帳)明治2年伊那県,同3年中野県,同4年長野県に所属集落の西部を北国街道の脇道坂中街道が通過しており,明治初年宿駅制廃止とともに坂中街道を通り善光寺町への輸送量が増加したそこで当村と野村上村との間で継場につき紛争が起こり,明治4年両村は互いに規定書を取りかわした(中宿共有文書)それによると上15日は中宿村,下15日は野村上村と定め,同7年関川駅から坂中通り善光寺道通過案が出ると直ちに支障なき旨を県参事に上申している(県庁所蔵文書)明治5年裏村を合併同7年の戸数40・人口153(県市町村合併誌)同8年柳里村の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 中宿村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」