ケータイ辞書JLogosロゴ 南雲郷(中世)


群馬県>赤城村

室町期〜戦国期に見える郷名勢多郡のうち奈雲とも書く応永3年7月23日の管領斯波義将施行状(上杉家文書/県史資料編7)に「上野国鳥屋郷・奈雲・長野郷・八幡庄・春近領并同国道珎跡所々事」と見え,当地などを上杉憲定代に沙汰付けするよう命じている戦国期と推定される年月日未詳の上杉氏所領目録(彦部文書/同前)には,「林庄之内 名雲郷半分」と見え当郷が林(拝志)荘に属していたことが知られる天正8年7月朔日の河田重親書状(須田文書/同前)には「彼口之儀種々相稼候儀……南雲之内正国分并山形分合卅貫文所出置候」と見え,須田勘丞に当地内の所領を宛行っているこれは前月の藤田信吉の武田方内通による沼田城の真田氏への明け渡しに伴うものと推定されるさらに,天正8年12月9日の藤田信吉宛武田勝頼定書写(長国寺殿御事蹟稿/同前)によれば,勝頼は信吉に対して「利根南雲」と利根川東の沼田を与えることを約束している天正10年2月に武田氏が滅亡すると,小田原北条氏が上野【こうずけ】制圧をめざして北上し,この頃沼田を支配した真田氏と対立した同年10月28日の真田昌幸充行状(真田宝物館所蔵恩田文書/同前)によれば,昌幸は「下南雲之内拾五貫文」を恩田伊賀守に充行っているしかし同年閏12月26日の北条氏照判物(狩野勝次郎氏所蔵文書/同前)によれば,「南雲之知行之義をハ,悉為始狩野大学助,地衆二可被任置候条」と見え狩野大学助と地衆に任せ置いたことがわかるこの文書の宛所は「南雲地衆」であり,この段階では当地は小田原北条氏方に属していたことがわかる同年4月10日の北条氏邦朱印状写(須田文書/同前)では,北条氏邦は「南雲」に須田源介を差し遣わしている戦国期と推定される年未詳12月12日の北条氏康書状(市谷八幡神社文書/同前)には「度々被致辛労候ニ付而,上南雲進之候」と見え安中源左衛門尉に宛て行っているさらに元正12年3月11日の真田昌幸朱印状(真田宝物館所蔵恩田文書/同前)には,当地で真田方の右近助が討死しており,真田方がここまで攻めこんだことがわかる現在は赤城村長井小川田の字名に南雲と,また南雲沢という沢の名が残っており,この付近に比定される江戸期には長井小川村字辻久保には南雲宿が見え,本陣・問屋があったという
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7283894
最終更新日:2009-03-01




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