西上秋間村(近世)
江戸末期〜明治22年の村名。碓氷郡のうち。上秋間村が西上秋間村と東上秋間村に分村して成立。「郡村誌」によれば,慶長8年に東上秋間村と西上秋間村に分かれたというが,郷帳類には上秋間村と記されている。村高は「旧高旧領」で518石余。ただし内部では,上秋間村は古くから二分されていたと思われ,うち当村にあたる地は西郷などと呼ばれていた。はじめ安中【あんなか】藩領,天和元年幕府領代官高室氏支配,貞享元年旗本喜多見氏領,元禄元年幕府領代官高室氏支配,同5年から旗本米倉氏領。寛文3年水野備後守による検地が行われ慣例にもとづき西上秋間字臼沢に18か村(西上秋間・東上秋間・中秋間・下秋間・中後閑・下後閑・原市・嶺・簗瀬・小俣・古屋・高別当・上野尻・谷津・常木・下野尻・中宿・岩井)の入会秣場が定められた。その利用にあたっては,地元西上秋間名義で炭竈1個につき銀2分を納めて製炭権を得たという。明治4年入会から6か村が脱退,新たに上後閑村が加わって,秋間4か村と後閑3か村,原市・簗瀬・嶺・小俣・古屋・高別当の6か村,計13か村に秣場公有地の地券が交付された。同14年の部分木植付願結約書によれば,反別180町歩は2官8民の割合で,その木数楢3万本。槲1万本・雑木5万本は13か村一同共有,ただし戸数7分,村数3分による植付取極めであった(安中市誌)。村内を妙義神社と榛名神社とを結ぶ参詣道が通り,二軒茶屋・三軒茶屋の茶店もあったことから二軒茶屋・三軒茶屋の地名が残る。後閑と秋間の境の佐野尻峠を経て三軒茶屋に入ると,加沼(鹿沼)に地蔵堂があり,ここで人馬の継立が行われた。天保年間には二軒茶屋に松屋・多胡屋・沢潟屋,三軒茶屋には港屋・桔梗屋・竜屋・藤屋の旅籠があった。天保15年関八州取締出役によって本街道に遠い脇街道での旅籠屋営業が禁止されたが,当地は榛名【はるな】へ4里,妙義へ3里余りの振り分け場所ということで,1軒だけ特別に許可された。ところが二軒茶屋には3軒,三軒茶屋には4軒の茶屋があったので,窮余の策として,1日交代で商売をするから1軒として認めてほしいとの嘆願が名主に出されている(同前)。明治元年岩鼻県,同4年群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県に所属。寺院には浄土宗専念寺があり,明治6年同寺に飽馬西小学校が開校。開校当時の生徒数24人,同10年には男28人・女15人(同前)。同16年の戸数147・人数623(同前)。同22年秋間村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7283998
最終更新日:2009-03-01