ケータイ辞書JLogosロゴ 箱石村(近世)


群馬県>玉村町

 江戸期〜明治22年の村名。那波郡のうち。はじめ前橋藩領,延享4年幕府領。村高は,「寛文郷帳」では「箱田(石)村」と見え,303石余うち田方123石余・畑方179石余,「元禄郷帳」同高,「天保郷帳」304石余,「旧高旧領」同高。百姓の耕地所有状況は寛政6年畑反別屋敷改帳(同前)によると1反以下2人・1反〜2反15人・2反〜3反14人・3反〜4反13人・4反〜5反8人・5反〜6反8人・6反〜7反3人・1町1人・1.3町1人とある。さらに組合村大惣代の三右衛門の日記(渡辺家文書)から潰百姓の状況をみると,文化3年73軒中潰百姓は20軒,安政2年53軒中水呑百姓9軒。助郷は2km東の日光例幣使街道五料宿で,高304石のうち263石3斗が御伝馬勤高であった。明和元年野州天明宿での十三宿評議による道法支配取究によれば,日光例幣使街道五料宿から玉村宿へ向かう185間の普請を受け持つことになった。ただし天保7年隣村3か村と組んで五料宿役人の指図に従わず,ついに五料宿役人が出府訴訟して解決したこともあった(五料区有文書)。文久元年の和宮下向の際は中山道板鼻宿から武州本庄宿まで合宿になり304石で勤め,11月10日には40人,前3日間は6人ずつ板鼻宿から本庄宿まで行列に従った。組合村24か村で46両の費用を高100石につき丁銭1貫400文の割当てで,1両3分と56文の割付けを受けた(渡辺家文書)。嘉永6年の人別帳(箱石区有文書)によると,村役人は名主1・組頭6・百姓代2。元禄15年・寛保2年・安永2年・同4年・天明3年・同6年の洪水の被害は甚大で,特に天明3年の浅間山焼け・泥押し,同6年の泥押しでは大被害を受けた。天明3年の降灰は30cmに及び,同6年の洪水は隣村南玉村の堤防を押し破って泥流が押し込み民家や良田を押し流し,そのため離村者が増え,村は衰微し,養蚕を米麦にかえて行うほかはなかったという。幕末になると天保改革の禁止があったにもかかわらず芝居興行が盛んになり,安永8年の芝居入用帳(木暮家文書)によると,集めた金41貫500文うち村内72人から19貫200文,隣村から22貫300文,入用残金2両2分とある。また三右衛門日記には,嘉永年間から安政年間頃しばしば歌舞伎興行内済・聞済を願い出ているとある。貫前神社は祭神経津主命,諏訪社・稲荷社を末社とする。養命寺は薬王山瑠璃光院と称され宝暦7年の開基。村内には寛永・延宝・元禄・宝永などの古い墓石がある。幕末の改革組合村帳によれば,玉村宿寄場組合に属し,高304石余,家数44。明治元年岩鼻県,同4年群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県に所属。また明治7年の租税割掛帳(同前)によると貢租39円余。明治2年の宗門人別帳(同前)によれば,人数199うち男72・女102。学校は明治6年沼之上小学校,翌7年隣2か村と共立の谷川小学校を設け,同18年那波第一小学校第2分校を沼之上村に置き,同19年五料小学校となる。同22年芝根村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7284156
最終更新日:2009-03-01




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