ケータイ辞書JLogosロゴ 笛木新町(近世)


群馬県>新町

江戸期〜明治8年の町名緑野【みとの】郡のうち笛木村,笛木新宿とも称された落合新町とともに中山道新町宿を形成北を烏川,東を神流【かんな】川が流れ,両河川に挟まれた氾濫地帯に位置し,地内は標高60mの平坦地をなす天正10年信濃国小県郡から地内字本屋敷へ土着した人々が,洪水のたびに木によじ登り,笛を吹いて危険を知らせたことが地名の起こりといわれているなおこれらの人々は,文禄元年藤岡にも転居し,同地名を残した(新町沿革史)地名は戦国期から見え,天正13年と推定される年未詳閏8月9日の北条氏邦判物(坂本郷文書/安中市誌)に「伝馬次……ふへ木 ほしのに可申」と見え,小田原北条氏から伝馬に関して足利・太田などの地元衆を責任者とする虎の印判状を発給する旨を伝え,当地については星野氏を責任者としている天正19年から武州金窪城主川窪与左衛門の支配下となったが,江戸幕府成立から万治年間までの領主は不明で,万治年間には旗本室賀氏・稲垣氏の相給,寛文年間から幕府領岩鼻代官支配となる村高は「寛文郷帳」では「笛木村」と見え,村高535石余ですべて畑方となっている「元禄郷帳」では346石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに379石余また嘉永5年の中山道新町宿明細帳によると,高379石余,反別は畑80町5反余で,これは元禄4年池田新兵衛・近山与左衛門の検地によるとある(吉井町郷土資料館蔵文書/県史資料編9)なお笛木村の名は「正保国絵図」に見え,この頃から本屋敷の住民が街道の両側に移転し,町並みをつくり始めたと思われる承応2年には中山道の伝馬役が命じられ(三俣家文書),この2年前,慶安4年伝馬役を命じられていた落合新町とともに宿場を形成するようになり,元文年間道中奉行の達しにより両町合わせての新町宿の称が公式に定められた宿場を形成するようになると,笛木新町を上町・中町・下町と分けて呼んでいたが,のち諏訪神社が本屋敷から現在の地に遷座された中町を諏訪町,八坂神社が祀ってあった下町を八坂町,上町をそのまま笛木町と呼ぶようになった新町宿の本陣・脇本陣はともに落合新町にあり,笛木新町は問屋を落合新町と交替で勤めた当町では内田源左衛門・千木良武太夫・三俣七郎衛門が勤め,下15日が当番となっていた新町宿では大火や大洪水に見舞われることが多く,村人はその都度復興に努めたが,万用抜書控(田口家文書/県史資料編9)によれば,延享4年1月9日の大火では新町宿全体で202軒が類焼し,うち笛木新町では153軒中137軒が焼失しており,また寛保2年の大洪水では,流失家屋43軒・潰家屋45軒を数え,流死28人・流死馬1頭,川水丈1丈5尺余,村内水丈8尺と記録されている文化12年夜間神流川を渡る旅人のために,専福寺住職賢顕らが発起人となり,常夜灯が建立された正面には江戸の漢詩人大窪詩仏の書で「常夜灯」と刻まれ,見通し灯籠と呼ばれたのちに高崎市大八木に移され,現存している対岸の武州側にも,同型のものが本庄宿戸谷半兵衛の寄附で建てられ,現在埼玉県上里町大光寺境内に保存されている鎮守は諏訪神社で,祭神は建御名方命寛文年間の創建と推定され,はじめは本屋敷にあったが,宝永5年に現在地に移され,宝暦7年に社殿を造営したと伝えられる延宝3年に焼失,天和3年に再建明治39年再度焼失し,同43年に拝殿が,昭和11年には本殿が再築された寺院では浄泉寺と専福寺がある五劫山法蔵院浄泉寺は,本尊阿弥陀如来,北条阿波守増信の勧請により林応が開山,ただし天正2年と弘治元年の開山説があるもとは地内の堂場墓地にあったが,天正10年の兵火で焼失し,宝暦2年現在地に再建され,明和2年鐘楼が建立された笛木山普賢院専福寺は,本尊不動明王,万治3年仙稚房が開山安永4年本堂が新築され,宝暦2年に再建されている明治元年岩鼻県,同4年群馬県を経て,同6年熊谷県に所属明治5年新町小学校の前身にあたる懇信社が浄泉寺を学舎として開設同8年新町駅の一部となるなお現在新町は区制をしいており,大字名としては残されていないが,4区・5区・6区・8区・9区・10区および7区の一部に比定される
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7284387
最終更新日:2009-03-01




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