ケータイ辞書JLogosロゴ 舞木(中世)


群馬県>千代田町

 室町期から見える地名。邑楽【おうら】郡のうち。文明3年と推定される年未詳7月2日の上杉政真宛将軍足利義政感状写(御内書符案/県史資料編7)に,「将又攻寄上州佐貫庄立林舞木城之刻,図書助其外数多被疵并討死有之云々」と,同じく文明3年と推定される年未詳7月2日の太田資清宛足利義政御内書写(御内書符案/埼玉県史資料編5)には,「近日攻寄舞木城合戦之時」と,城名で見える。古河公方足利成氏と関東管領上杉氏の争乱は享徳3年以降一進一退を繰り返しながら続いたが,同年成氏が伊豆三島に兵を出し,堀越公方足利政知を討とうとして失敗したことから再び激化した。上杉方はこれを機として成氏を倒そうと図り,長尾景信が足利荘に進出して,赤見城(現栃木県佐野市)・樺崎城(現栃木県足利市)を落とし,5月23日までに当地の舞木城を攻略した。景信はさらに兵を進め,6月24日には成氏の本拠古河を陥れて,成氏を千葉城に追っている。「上野国志」によれば,舞木城は舞木持広の居城と伝える。舞木氏は佐貫荘の開発領主佐貫氏の一族で,佐貫氏本宗の没落後,佐貫荘の西部で勢力を張っていた。応永23年の上杉禅秀の乱ではこれに与同した岩松満純を舞木宮内丞が生け捕りにしたという(鎌倉大草子/群書20)。また,永享12年の結城合戦では,舞木駿河守持広は,結城方にくみしたため,上杉氏の家宰長尾忠政のために誅殺されたという(同前)。享徳4年2月29日の足利成氏書状案(正木文書/県史資料編5)によれば,成氏は岩松持国に舞木氏・佐貫氏への仲介を命じている。同じ頃と推定される年未詳7月12日の同書状案(同前)にも「舞木一族被官中事,其方可致同意由被仰付候」と見え,この内乱では舞木氏は岩松持国とともに成氏方として活動を続けていたことがわかる。しかし,文明3年の舞木城落城は舞木氏にとっては大きな痛手となったようで,これ以降舞木氏の動きが史料に見えなくなり,代わって舞木氏の被官であった赤井氏が台頭した。「永正十五年道者日記」に「在所まい木」として「くか原六郎二郎」以下同姓の一族とみられる3名が記されている(県史資料編7)。この道者日記は伊勢の道者久保倉藤三が東国を廻った際受けた寄附金とみやげの帯の数を記したものであり,各地の在地領主の名が記されており,舞木氏没落の後,くか原氏がこの地を支配していたことが知られる。室町期に成立しその後書き継がれた「鶏足寺世代血脈」には「上州舞木駒形堂」「舞木中島願成寺」が見える(同前)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7284568
最終更新日:2009-03-01




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