ケータイ辞書JLogosロゴ 南下村(近世)


群馬県>吉岡町

 江戸期〜明治22年の村名。群馬郡のうち。はじめ高崎藩領,元禄11年幕府領と旗本中沢氏領・松平氏領・岩出氏領の相給,同14年幕府領,享和2年旗本戸川氏領,文化4年旗本松前氏領,文政4年から幕府領。寛文年間下村が南下村と北下村に分村して成立といい,「寛文郷帳」には下村が記されている。「元禄郷帳」では村名が見え村高669石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに677石余。安政2年の同組合村柄書上帳(堀口家文書/県史資料編13)によると,御三卿清水家領と旗本3氏の相給で,家数110,人数は男210・女227,馬15,農間稼ぎは秣・薪取入れ,産物は蚕を少々とある。作物は稲作のほか大麦・小麦・アワ・ヒエ・大豆・小豆・芋・大根・菜など。水田に灌漑する水は,午王頭川の水と一部城山北麓から湧出する城根川の水を利用した。元禄年間頃名主中沢八郎兵衛は村人と図り,長山の地へ貯水池を作った。享保3年に同池水量の増加を図り,蛇ケ見川の水を導入しようとしたが,前橋藩領池端村・青梨子村がこれに反対して争論となり,江戸幕府の裁許を得て,当村は水利権を獲得した。また農耕に必要な秣場をめぐっても争論は発生した。寛文7年桃井郷13か村と伊香保村が二ツ岳秣場境界をめぐって争論となったが,当村も桃井郷13か村のうちにあってこの騒動に巻き込まれた。明和年間にこの二ツ岳に蒸湯が湧出し,その所属と開発の是非をめぐって,当村は桃井郷13か村のうちにあって伊香保村と争った。争論は明治年間にまで続いたが,蒸湯は湧出が止まり,明治18年秣場は官有地に召し上げられて争論は終結した。明治維新に際して当村でも打毀が起こり,名主中沢家は焼打ちにあった。教育では,中沢八郎兵衛・石関民五郎・狩野金左衛門らの名主が寺子屋教育を行った。なお,幕末の改革組合村高帳では渋川村寄場組合に属し,高677石余,家数66。明治4年前橋県,群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県,同11年群馬県西群馬郡に所属。寺院には天台宗金剛寺があったが,明治4年全焼し,不動堂だけが残った。また古跡には桃井直常の築城したと伝えられる桃井城,古陵は桃井直常の墓と伝えられる桃井塚などがある。同18年当村中央を通る三国街道は改修され清水越新道が開設された。同22年明治村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7284701
最終更新日:2009-03-01




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