ケータイ辞書JLogosロゴ 三夜沢(中世)


群馬県>宮城村

 南北朝期から見える地名。勢多郡のうち。「神道集」の「卌一,上野国勢多郡ノ鎮守赤城大明神事」に,「猶モ此山ノ名残惜クシテ,小沼沢ニ三ケ日御逗留有ケリ,故ニ今ノ代ニハ此所ヲハ三夜沢ト申ケル」と見え,当地名の由来が記されている。赤城神社は現在地の東方1kmの場所から移ったとされ,そこを元三夜沢という。昭和40年にこの付近で宇通遺跡が発見され,これが初期の赤城神社とする説もある。下って,永禄4年12月27日の上杉輝虎(謙信)制札(奈良原文書/県史資料編7)には,「於妙沢小屋越関之諸軍勢,濫妨狼藉堅停止之」とあり,「妙沢」が当地のことと考えられる。この前年は謙信の関東出兵の年にあたり,小田原北条氏と戦っている。この制札の奉行人は河田長親と北条高広であるが,高広はのちに上杉方の関東での拠点であった厩橋城に拠った。また,高広は三夜沢赤城神社を尊崇した。永禄5年頃と推定される年未詳3月9日の上杉輝虎書状(同前)には「赤城山三夜沢,任先規守護不入之儀,得其意候」と見え,当地を守護不入の地とすることを赤城山三夜沢神主に伝えている。その他の文書にも赤城神社を三夜沢宮,あるいは三夜沢大明神と称し,神官奈良原氏を三夜沢神主とするものが多くある。永禄9年10月12日の由良成繁制札(同前)によると,「於大胡領三夜沢,濫妨狼藉堅停止」と見え,当地が大胡【おおご】領に属していたことが知られる。元亀3年10月26日の応昌寺(現大胡町河原浜)に宛てた北条高広判物(善昌寺文書/群馬県古城塁址の研究補遺上)によれば,「三夜沢,柏倉所領両方共応昌寺へ相渡申候……守護不入之儀可為尤候」とあり,当地への守護不入を前提として応昌寺に渡している。天正16年閏5月10日の北条氏照判物(奈良原文書/県史資料編7)によると,小川五郎右衛門尉なる人物が赤城神社に対して訴訟を企てたところ敗訴になったとあるが,小川は「自古来三夜沢住所之者之由候間,召返従前々拘候田地屋敷相渡尤候」と見え,田地・屋敷を返付するよう赤城山三夜沢神主に命じている。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7284751
最終更新日:2009-03-01




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