ケータイ辞書JLogosロゴ 三夜沢村(近世)


群馬県>宮城村

 江戸期〜明治22年の村名。勢多郡のうち。江戸期を通じて赤城神社領で,慶安2年3代将軍家光の時,石高50石を諸役免除の朱印地とする朱印状が出された。「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに50石。赤城神社は江戸期には東宮と西宮の2社があったが,明治初年1社に合併している。本殿前の参道両側に社家が並び,元禄11年29戸,天保12年には17戸があった(宮城村誌)。人口は,元禄11年139・正徳元年124・天明6年108・天保12年90(同前)。赤城神社の参道に残る松並木は,慶長17年に大前田村の川東彦兵衛が寄進したもので,苗木は太田の金山から取り寄せたという。赤城神社は,中世から上杉謙信・由良成繁・北条高広など戦国武将の信仰を集めた。江戸期の神社の動向については,神職奈良原家に保存されている赤城神社「年代記」に記されている。赤城山は近村136か村の入会地としても重要であったが,元禄3年これらを入会地として入山していた地域が,三夜沢境界論にからんで当村が神領として主張し,まず神社と近村の鼻毛石・苗ケ島・柏倉3か村との間で争論が起きた。同5年前橋藩は3か村側の勝訴としたが,当村側がこれを不満として幕府に訴状を提出し両者が対立をしている間に,近村136か村の秣場紛争に波及した。同6年幕府は当村を敗訴とする裁定を下し,この時裁許絵図が社人・3か村・136か村に1枚ずつ渡された。神社では毎年神楽の奉納が行われ,現在も5月5日の例祭日に奉納されている。明和年間から明治6年まで神職真隅田家で朝日乃舎私塾を開いていたが,同年鼻毛石学校が開校してからは同校に通学することとなる。明治4年前橋県,群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県,同11年群馬県南勢多郡に所属。同22年宮城村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7284752
最終更新日:2009-03-01




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