ケータイ辞書JLogosロゴ 八木沼郷(中世)


群馬県>境町

 平安末期〜戦国期に見える郷名。新田郡新田荘のうち。仁安3年6月20日の新田義重置文(長楽寺文書/県史資料編5)に義重が,「らいわうこせんかハゝ」に譲った新田荘空閑の郷々19か所の1つに「やきぬま」と見える。「らいわうこせん」は義重の第4子義季と推定され,その母を通じて義季に所領を譲ろうとしたものと考えられる。鎌倉期には,当郷の田畠在家が在地領主と推定される人々によって売却され,鎌倉幕府の安堵の下知状を受けている。正和3年5月28日の新田朝兼売券(同前)によれば,朝兼は重代相伝の私領である「上野国新田庄八木沼郷内在家三宇・畠伍町六反」を直銭70貫文で売り渡しており,同在家畠の一年分の御公事が,「領家御年貢御綿代卅三文,銭十七文,鎌倉大番用途十四文,同垸飯用途六十七文,小舎人用途七文,へいの用途十三文」であったことがわかる。なお同売券には買主の名が見えないが,同年8月23日の関東下知状(同前)で同在家畠の安堵をうけている由良景長妻紀氏であることが知られる。朝兼は同4年2月22日の新田朝兼在家畠地売券(同前)でも「新田庄八木沼郷内道念給分跡在家壱宇并弥三郎跡在家壱宇,已上弐宇内畠参町捌段」を直銭100貫文で売り渡しており,同在家畠の御公事は「鎌倉大番用途・垸飯用途已上百文」であった。なおこの売券にも買主の名が見えないが,同年3月23日の関東下知状(同前)で由良景長妻紀氏に安堵されている。また,文保2年□(10)月6日の新田義貞在家畠地売券案・同年12月23日の関東下知状案によれば,「八木沼郷内在家柒宇・畠拾伍町渠柒段」を直銭323貫文で同じく由良景長妻紀氏に売却したことがわかる(同前)。嘉暦3年8月26日の小此木盛光妻紀氏寄進状案(同前)によれば,長楽寺に「八木沼郷内畠捌町九段大・在家四宇,同所畠拾弐町五段半・在家四宇」等を沽券・下知状を添えて寄進したとしている。同年11月8日の大谷道海寄進状案(同前)によれば,「新田庄八木沼郷内在家拾弐間・畠弐拾五町壱段」などを長楽寺に寄進している。道海は正和年間に火災によって灰燼に帰した長楽寺の再興に尽力した人物であり,これ以外にも多くの在家・田畠を同寺に寄進している。先に寄進した由良景長妻紀氏は道海の娘であり,道海寄進の在家畠も紀氏の名字を以て買得したものという。そのため,嘉暦4年卯月13日の長楽寺住持恵宗宛行状案(同前)によれば,寺領「八木沼在家」・「堀口田島在家」などの政所職に補任され,八木沼の内在家3宇を宛行われている。なお南北朝期と推定される年月日未詳の長楽寺々領目録(同前)には「一,八木沼郷内在家畠〈嘉暦三年八月廿六日〉〈惣畠十四町九段,新寄進分,小此木彦次郎盛光妻紀氏寄進之,所当四十一貫七百二十二文,除宮地定〉」「一,八木沼郷内在家畠,下江田村内赤堀在家一宇〈惣畠十五町二反所当五十一貫五百七十三文,此内三十三貫四百文 出作分〉 西谷村在家等事〈嘉暦三年十一月八日〉〈田畠十一町九反所当員数不見之,大谷四郎入道々海 寄進之,以八木沼郷以下散在地,為義貞追善料所,将軍家御寄附御判〉」「一,八木沼郷〈加藤三郎跡 正平七年二月五日 御判〉」と前記の寄進状とはやや内容が異なるが,大谷道海および紀氏の寄進地が記載される。また当郷内に新田義貞の所領があり義貞没落により追善料所として将軍足利尊氏によって寄進されたものと見える。なお貞治4年7月5日の長楽寺住持了宗寺領注文(同前)にも同様のことが見える。享徳年間以降と推定される「上野国新田庄嘉応年中目録持国当知行分」とある新田庄知行分目録および年月日未詳の新田庄内岩松方庶子方寺領等注文によれば,当郷は,長楽寺領であった(正木文書/県史資料編5)。下って戦国期においては,天文24年5月19日の由良成繁書状(長楽寺文書/同前)によれば,成繁は「長楽寺領平塚・八木沼之諸百姓」に対し,公事については長楽寺に届けて沙汰することを禁じ,「八木沼郷」については由良氏の被官と推定される金井・栗原方へ申し付けることを伝えている。長楽寺領であったためか,「長楽寺永禄日記」にも当地名が散見する。同書永禄8年正月16日条には「敵八木沼マテ来トモ,左衛門二郎当地ヨリモテシゲニ出合間」とあり,敵小田原北条氏の軍勢が当地付近まで侵入し,世良田から小此木左衛門二郎が度々出張していたことが知られる(長楽寺所蔵/県史資料編5)。この小此木氏は境城主で当郷など7郷を領有したという。また同年2月20日条にも「其時分敵十騎計乗籠,八木沼近辺迄来ツル,左衛門二郎早出合故,馬ヲトリテ行ヲ河端ニテヲイヲトス」とある(同前)。また同年正月21日条に「此晩ニ自金筑,旦那内儀トテ,明後日吉日ナル程ニ,長手之普請可致之人足可越トノ文也,先々両郷へ申付」とある両郷は,当郷と平塚郷のことで,同年正月25日条によれば「長手之普請」のため「八木沼十九人,平塚十七人,モツコ十四丁,クワ八ク」を遣している(同前)。この普請は築城に関するものと考えられるが,明らかではない。同年正月26日条にも「重両郷ノ人足フレニ平塚郷ヘハ也蔵司・小三郎,八木沼ヘハ的子・助六・彦大郎遣申付也」と見え,同年2月7日条でも17人の人足を出している(同前)。また同年5月27日条にも「夫馬三疋調,平塚ニテ二疋,八木沼ニテ一ヒキ申付」,同年5月28日条にも「シロカキ馬八木沼ヨリ六疋,平塚ヨリ四疋,高柳処ヨリ一疋,手馬二疋,十三疋ニテカク」などとある(同前)。同年7月5日条には「平塚・八木沼人足之儀ヲモ長宗ヘトゝク……亥之日也,八木沼ノ大根ヲマカスル」,同年7月26日条にも「今日草刈小者共ニ八木沼大根之草ヲトラス」とある(同前)。天正14年7月24日の北条家印判状写(相州文書/県史資料編7)によれば,「一,六拾六貫三百八拾六文矢木沼」など計100貫文の地を大井豊前守に宛行っている。由良氏は天正12年に小田原北条氏と対立し,敗れて桐生の地へ退去した。文書中に「新田領検地奉行前」より請取るべき旨の文言があり,宛行に先立って検地が行われたことがわかる。天正18年4月日の豊臣秀吉禁制(長楽寺文書/県史資料編5)によれば「やぎのま」など8か所に対する濫妨などが禁止されており,小田原攻めのために出兵した秀吉軍の一部がこの地に進出してきたものであろう。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7284861
最終更新日:2009-03-01




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