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「連雀町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
連雀町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は高崎城下町の1町で,明治22年高崎町,同33年からは高崎市の町名となる高崎城大手門前に位置する町名の由来は,慶長3年井伊直政が箕輪城か...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7285073]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 連雀町(近世~近代) 江戸期~昭和44年の町名江戸期は館林城下19町の1つ(館林記/県史料集2)延宝2年の館林城下町図(館林市立第一資料館蔵青山文書)によると,館林城大手門と札の辻の間に位置する町人町で,西は竪町に続く町名の由来は,中世末より六斎市が立ったところで,市日には近郷農民などが生産物を連尺(連索)にくくり付けて商ったことによるという(館林町誌稿・館林市誌)この六斎市については,天正12年小田原からやってきたういろう(薬)売りの商人が,小田原の北条氏直へ当地の市開催希望を仲介し,小田原北条氏より許可されたとの話を伝える(館林記/県史料集2)そこで大手門近くの当町に市場の神を祀り,同地付近を市開設の場所とし,以来3・8の六斎市が開かれるようになったしかし寛文・延宝年間頃になると,開催地連雀町通りは城の出入りに差し支えがあるとの理由で,竪町・谷越町・足利町の3か所に移され,この3か所で交互に開くという方法がとられた「館林記」によると,延宝2年の家数は板葺家28,人数194うち男109・女85,馬17(県史料集2)弘化3年の町方引渡帳(館林藩史料/館林双書)によれば,家数51うち町役人無役屋敷1・町役人無役屋敷借家4・定使無役屋敷1明治末年館林城二の丸跡に従業員2,000人といわれた上毛モスリンが設立され,当町中央付近を東西に走っていた道路が町内東端付近から旧城内まで延長され,さらにこの道路南側にあるモスリン会社から館林停車場(現館林駅)に通じる軌道も敷設され,原材料や石炭・製品などの頻繁な輸送が始まり,会社の発展とともに当地域は繁栄した(邑楽郡誌)しかし大正15年にモスリン会社は破産したため,館林商店街の打撃は大きく,特に当町界隈はその影響を強くうけた町名は,明治22年館林町館林,昭和29年からは館林市館林の通称町名として存続してきたが,同44年本町1~4丁目となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 連雀町(近世~近代) 江戸期~昭和8年の町名天正年間頃にはすでに町として成立していたという(東京地理志料)慶長年間,香具師・行商人などが多く住んでいた町名は行商人の背負う連尺にちなみ,のち連雀と改める明暦の大火後,住民は現在の三鷹市上連雀・下連雀に移転させられたが,わずかな地域が残った多町【たちよう】・永富町とともに「青物三か町」とも呼ばれ,青物市場の一部となり,幕府御用も勤めた明治5年,天和3年まで戸田采女正の屋敷だった酒井徳之助らの武家地を合併明暦の大火以前は,町年寄喜多村又四郎が住む「連雀庵」があった喜多村氏は香具師の鑑札を発行し役銭をとっていた明治元年東京府に所属同5年の戸数83・人口433(府志料)同11年神田区に所属昭和8年須田町1丁目・淡路【あわじ】町2丁目に編入現行の神田須田町1丁目・神田淡路町2丁目のうち... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」