新井村(近世)
江戸期〜明治12年の村名県東部,芝川左岸の大宮台地上に位置する北から北東にかけてわずかに見沼の開析谷がみられる地名の「イ」には井・堰・居などの意味があり,広義には開墾集落を意味すると思われる(地名誌)足立【あだち】郡南部領のうち旗本青木氏の知行検地は寛政12年村高は「田園簿」で55石余,うち田15石余・畑39石余,「元禄郷帳」55石余,以後変わらず村の規模は東西5町余・南北3町余化政期の家数20軒余水損場で「水利不便時々旱に苦しむ」(郡村誌)状態であった特産物は長芋と柿渋でともに江戸へ出荷され南部長芋・赤山渋として珍重された紀伊徳川家の御鷹場支配を受け,鳥見役八木橋七兵衛預り26か村の1つで,嘉永2年下総【しもうさ】小金原の猪鹿狩りには勢子人足18人を徴発された助郷は日光御成街道大門【だいもん】宿に出役寛保・宝暦年間には水害の被害が大きかった植田谷【うえたや】領の差村として中山道大宮宿へ代助郷を負担文政11年より大門宿寄場34か村組合に所属天保年間には農間余業を営むもの酒造1軒・豆腐油揚1軒・質屋3軒・紺屋1軒・飴菓子1軒などがあった(大宮市史)世襲名主は臼倉家で,同家は地頭青木氏知行地6か村の割元名主でもある主要道路は江戸大門道鎮守は西勝院持の天神社寺院は新義真言宗西勝院,同寺は村民の菩提寺であったが,明治4年廃寺高札場は村の中央小名は小山・山崎・台明治4年埼玉県に所属同7年新井新田を合併明治9年の戸数27・人口146,馬6御蔵・中野・大谷の3か村の間と御蔵・三室・中川・中丸・中野の5か村の間に飛地がある物産は米・大麦・甘藷などで,米・甘藷を出荷同12年郡区町村編制法施行により北足立郡東新井村となる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7285304
最終更新日:2009-03-01