ケータイ辞書JLogosロゴ 飯田村(近世)


埼玉県>さいたま市

 江戸期〜明治22年の村名。足立郡植田谷【うえたや】領のうち。はじめ幕府領,慶長18年からは旗本伊奈氏の知行。検地は慶長年中。村高は「田園簿」で250石余,耕地は田25町余・畑12町余,ほかに野銭永10貫余,「元禄郷帳」247石余,以後変わらず。村の規模は東西7町・南北4町余。化政期の家数28軒。用水は北方佐知川【さじかわ】村に敷設された代官堀や関沼溜井を利用したが,旱害の際は鴨川から水車を使って水を汲みあげたという。このため関沼溜井8か村組合や鴨川用悪水22か村組合・悪水吐圦樋10か村組合などに加入した。紀伊徳川家の御鷹場支配を受け,鳥見役北沢甚之丞預り28か村の1つで,嘉永2年下総【しもうさ】小金原の猪鹿狩りには人足20人を徴発された。天保年間には鷹匠や鳥見の廻村費用を分担しあうため上小村田【かみこむらた】村など3か村で小組合を結成していた。助郷は中山道大宮宿に出役。正徳・安永年間には日光御成街道大門【だいもん】宿への当分助郷を負担。文政11年より大宮宿寄場55か村組合に所属。天保年間には質屋渡世2軒があった。主要道路はほぼ中央を東西に通る川越【かわごえ】道。同道は古くは岩槻【いわつき】より川越への街道であったと伝えられ,両脇に一里塚が残っていたという。鎮守は氷川・八幡合社。寺院は天台宗安養寺・新義真言宗光善寺。天保年間から磨田家では医業のかたわら寺子屋を開き,近隣の子弟の教育に当たった。高札場は村の中央。小名は碇耕地・井戸尻耕地・鍛冶屋耕地など。明治4年埼玉県に所属。同9年の戸数33・人口172,馬4。植田谷本・島根両村の間,三条町・島根両村の間,中野林・二ツ宮両村の間,佐知川・指扇【さしおうぎ】両村の間に飛地があった。物産は米・大麦・大豆などで,米を出荷。明治12年北足立郡に所属。同22年植水【うえみず】村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7285343
最終更新日:2009-03-01




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