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「石坂」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

石坂


県中央部,岩殿丘陵の東部に位置し,丘陵の南面を浸食して流れる唐沢川が地域の中央部を流れる...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7285419]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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石坂村【いしざかむら】

(中世)戦国期に見える村名

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

石坂村(中世)
戦国期に見える村名天正19年正月17日豊臣秀吉が秋田実季の当知行を安堵した朱印状写に「石坂村・小阿仁村」253石余とある(秋田家)これが唯一の史料朱印状写に記載された石坂村の前の村々は,秋田氏が浅利氏から奪取してから出羽国秋田郡南比内阿仁【あに】地方に編入された旧陸奥国管内の村々であり,当村も阿仁地方の1村とみられるしかし村名は近世秋田藩政下に継承されず,現在の小字名にも見当たらない上記253石余のうち,小阿仁村分が192石余と推定されるので,当村は60石前後の小村となる現在地比定は未詳であるが,近世の阿仁川北岸平坦地の村々では,根小屋堰用水路完成以前は大野台台地に構築した堤池用水に頼り,そのひとつに梅村堤付近の堤に関して,石坂と称したという伝えがある秋田藩政初期には米内沢【よないざわ】村に含められながら,17世紀後半の開発の中で釣田新田【つるたしんでん】村が寄郷として独立,18世紀以降再び米内沢村の枝郷地帯に包摂された地域である大野台開発として近代以降は再に様相が一変するこの開発の中で60石余の小村石坂村の村名が解消したものと臆測し,いちおう当村をこの地点に比定しておくなお可能性としては川井村・八幡岱新田村付近とも見られるいずれも朱印状写で並記された小阿仁村とは距離的に多少へだたりがあるが,これは当時の当村を領したとみられる嘉成三七との関係からかと推定浅利旧臣で秋田家臣となった人物であり,「秋田家分限帳」では当地方に給地を保証されている...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

石坂村(近世)
 江戸期~明治22年の村名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

石坂村【いしざかむら】
(近世)江戸期~明治8年の村名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

石坂村(近世)
江戸期~明治8年の村名安曇【あずみ】郡のうち姫川中流左岸の山間に位置する山間部は地滑り地帯で,のち明治44年には浦川上流の稗田山で地滑りが発生し,大被害となるもとは西小谷【にしおたり】村の一部慶安検地の際に西小谷村が石坂・大網・来馬の3か村に分村して成立松本藩領大町組に属する村高は,「元禄郷帳」46石余,「天保郷帳」では西小谷石坂村と見え196石余,「旧高旧領」200石余享保20年の家数62・人数554,馬14・牛32村民の生業は米作が中心であったが,耕地・生産量ともに少なく,畑では主に麻を生産したまた松本と糸魚川【いといがわ】を結ぶ千国街道が村内を南北に通っており,沿道には牛方・歩荷を生業とする者が多かった複雑な地形のため集落は散在し,享保年間には宮本・下り瀬・池原・北野・高車・湯原・日道・石原・奈良尾・柴原といった枝郷があり,他村の枝郷と入り組んでいた安政2年の安曇筑摩両郡村々明細書上帳(県史近世史料5-1)によれば,家数53・人数795地内池原に諏訪社がある明治4年松本県を経て筑摩県に所属同8年千国村・中小谷村・中土村・北小谷村の各一部となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

石坂町【いっさかまち】
(近世~近代)江戸期~昭和42年の町名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

石坂村【いっさかむら】
(近世)江戸期~明治12年の村名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

石坂町(近世~近代)
江戸期~昭和42年の町名江戸期は金沢城下のうち明治22年からは金沢市の町名もと石坂村の村地であったが,相対請地として町家が立てられた「年代摘要」によれば,享保12年2月「石坂村家続町家願之通り新家建之」と見えるが,すでに元禄9年の「地子町肝煎裁許附」に町名が見える当町を中心に,石坂を冠称した町名が多く,「石坂千軒または石坂台」の名がある(郷土辞彙)文政6年,南・北石坂町に分かれるとともに一部が金戸町・小柳町となる明治5年石坂新地を編入同12年石坂村の一部を編入同13年の出火で315戸を全焼大正5年の戸数196・人口588昭和19年,第2次大戦の戦局が急を告げ,石坂町では料亭・芸妓置屋など46軒・158人が休業した昭和33年売春防止法の完全実施を前に県下の遊郭は2月28日をもって転廃業し,石坂町一帯は飲食店や旅館などに転業したものが多い現在は,北陸自動車道に通じる新しい街路が設けられ,表通りが近代化していく中で,とりのこされたように24軒の料亭が営業を継続している昭和30年の世帯数25・人口73同42年野町2丁目に編入...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

石坂村(近世)
江戸期~明治12年の村名「いしさかむら」ともいう加賀国石川郡五か荘に属す加賀藩領犀川【さいがわ】左岸,犀川大橋の西方付近に立地寛文10年村御印の村高71石,免5ツ4歩家高2軒・百姓数3人(加州三郡高免付御給人帳)早くから当村域は相対請地化し,元禄9年には村域に成立した石坂町の名がみえ,享保12年2月には「石坂村家続町家,願之通り新家建之」という記事も見える(金沢市史・市街編第2)村高のうち55石余は,のち前田万之助らの屋敷地となり,残りの15石余は石坂町東力屋五右衛門と八日市屋某の所有地となり,両人が相対卸の地子銀を徴収曹洞宗竜昌寺の寺地もそこに含まれていたという藩政後期のこのころすでに,当村は無家となっていた文政4年の相対請地整理のとき,針屋町・石坂川岸町が当村地で町立てし,明治12年の整理のときは,本馬町・北石坂新町・石坂川岸町・助九郎町・石坂角場七番丁・上小柳町・下小柳町・石坂町へそれぞれ編入このときわずかに残った村地もすべて金沢町に編入し,村名は消滅(金沢市史・市街編第2・皇国地誌)...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

石坂(近代)
 明治22年~現在の大字名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

石坂角場【いっさかかくば】
(近世~近代)江戸期~昭和42年の町名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

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