ケータイ辞書JLogosロゴ 入間川(中世)


埼玉県>狭山市

 鎌倉期から見える地名。入間郡のうち。「吾妻鏡」元暦元年4月26日によると「堀藤次親家郎従藤内光澄皈参,於入間河原誅志水冠者之由申之云々」とあり,源頼朝に殺害されようとした志水義高が,父義仲の故地である上野【こうずけ】・信濃【しなの】方向へ逃げようと鎌倉街道を北上したが,この入間河原で堀親家の郎従藤内光澄のため討たれている。現在志水義高終焉の地と伝えられる所に清水八幡神社がある。元弘3年5月8日新田義貞は北条氏を討つため上野で挙兵し,上野国府と武蔵国府を結ぶいわゆる鎌倉街道を南下して,10日入間川の左岸(広瀬村あたり)に到着している。翌日義貞は入間川を渡り,小手指【こてさし】河原で桜田貞国を大将とする鎌倉軍と丸1日戦ったが決着がつかず,退いて入間川駅(現在の徳林寺付近)に宿営したという(太平記)。文和2年7月,足利尊氏は越後【えちご】,上野の新田勢に備えるため当時14歳であった基氏に入間川在陣を命じ,補佐として畠山国清を関東管領に任じ,自らは上洛した。この入間川御所の場所も徳林寺といわれている。尊氏がこの地を選んだのは信濃・上野から南関東への交通の要衝であり,古来より多く争奪の地として戦場となっていたことと,武蔵武士の統制に都合がよかったからと考えられる。延文元年9月日の江戸重房代同高泰着到状によれば「右,入間河御陣警固事,為二番衆,自今月一日至同晦日,令勤仕候畢,仍着到如件」とあり,武蔵武士は結番して警固にあたっていたことがわかる(江戸文書)。同3年尊氏が没すると越後にあった新田勢の動きが活発化し,やがて新田義興が100余騎を率いて北武蔵で策動しはじめた。しかし,関東管領畠山国清は謀計を案じ義興を矢口の渡しに誘殺している。同4年将軍義詮後援のため畠山国清は関東の諸将を率いて上洛し,基氏も鎌倉へ帰還しており,入間川在陣は約6年間であった。康安2年9月15日の陸奥守(関東管領高師有)奉書に「若御料入間河御座之間,不日馳参,可被致警固之状,依仰執達如件」とあり,基氏の子氏満が入間川に在陣し武蔵武士が警固にあたっている(安保文書/埼中)。応永23年上杉禅秀の乱に当たって,北武蔵の武士たちはほとんど禅秀方につき持氏を駿河へ追っているが,応永24年正月日の別府尾張入道代内村勝久着到状によると,別府勝久は大里郡庁鼻和【こばなわ】より関東管領上杉憲基に従って鎌倉に至っているが,その中に「同六日入間河御陣」とある(別府文書/神奈川県史)。また同年月日の豊島範泰軍忠状には「右,去年十二月廿五日夜,於武州入間河,二階堂下総入道仁令同心,御敵伊与守(上杉憲方)追落畢」とあり(豊島宮城文書/神奈川県史),両状に上杉憲基が証判を加えている。幕府が持氏支援を決定して以降,北武蔵の武士の中にも動揺がおこり,12月25日の入間河の合戦で禅秀方が敗れたあとは,関東管領上杉憲基の影響下にあったことがうかがえる。聖護院門跡の道興准后の記した「廻国雑記」には堀兼よりやせの里を通り,笹井へ向かう途中に当地を通ったことが見える。「役帳」には,小田原衆松田左馬助の所領として「百五拾貫文 入間川 卯検地辻 此内 七拾五貫文 当年改而被仰付半役」とある。松田氏は相模国(神奈川県)足柄上【あしがらかみ】郡松田荘の土豪であり,御由緒家に列せられるほど小田原北条氏に重んぜられており,交通の要衝である入間川を知行させていたのであろう。永禄7年9月20日の北条家印判状によれば,入間川は「自当年三ケ年之間,諸役令赦免了,但陣夫をは可致之者也,仍如件」とあり,3か年諸役が免除され陣夫役がかけられている。天正10年10月16日の北条家印判状(武文)によれば「敵入間川迄取越,□く者乗向御一戦ニ落着候云々」とあり,敵が入間川まで押し寄せてきたので,明日18日に滝山の御陣へ来るように小山田八ケ郷(現東京都町田市)に命じている。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7285579
最終更新日:2009-03-01




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