ケータイ辞書JLogosロゴ 入間川村(近世)


埼玉県>狭山市

 江戸期〜明治22年の村名。入間郡のうち。古くは入間郷山田荘東領に属したという。はじめ幕府領,のち川越【かわごえ】藩領。幕府領は慶長7年一部が旗本小野氏の知行,さらに寛永年間にも一部が旗本村越・杉浦氏の相給。天和2年杉浦氏知行分は旗本田村氏の知行となる。元禄7年川越藩領は旗本米津氏の知行,享保年間小野氏知行分は幕府領,同8年再び小野氏の知行。明和年間米津氏知行分は幕府領となり,のち川越藩領,幕末は上野前橋藩領。検地は不詳。南に入間川新田という持添新田があり,明和9年検地し幕府領。元禄年間に沢村・田中村の2か村を当村から分村した。村高は「田園簿」に入間村と見え1,025石余,うち田296石・畑728石余,「元禄郷帳」968石余,「天保郷帳」1,258石余。天正19年,徳川家康は小笠原喜三郎に入間村100石を宛行っている(古文帖)。村内を秩父【ちちぶ】往還と八王子道が通り,八王子道に沿って長さ7町,小名上・中・下宿のあたりで市を開催し,はじめ毎月2・7の日の六斎市であったが,化政期には7月11日・12月27日の両日のみとなったという。古鎌倉街道は小名中宿の裏を通り入間川を渡っていた。化政期の家数380軒余。村の規模は東西35町・南北24町。高札場は村の中央に1か所。用水は赤間川用水を使用。村の鎮守は,元弘3年新田義貞が勧進と伝え慶安2年朱印5石余を拝領した八幡社と,同じく慶安2年朱印3石7斗を拝領した牛頭天王社。神社はほかに八幡社など5社。地内の新義真言宗天竜山成円寺は,慶安2年に朱印1石余を拝領。また曹洞宗福聚山徳林寺は入間川殿といわれた足利基氏の御所と伝え,同宗妙智山慈眼寺は慶安2年阿弥陀堂領として朱印10石を拝領。ほかに新義真言宗長栄寺・薬師堂2などがある。明治6年枝村の田中・沢の2か村を合併。明治9年埼玉県に所属。同年の戸数445・人口2,367,馬50。上奥富村に飛地1か所。村の中央に公立小学校があり生徒数90。物産は繭・蚕卵紙・生糸・浮織・七子など。同12年入間郡に所属。同22年の市制町村制施行後も1村として存続。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7285580
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ