ケータイ辞書JLogosロゴ 岩付(中世)


埼玉県>岩槻市

 室町・戦国期に見える地名。埼玉郡のうち。永徳2年4月20日の長谷河親資軍忠状によれば,前年の小山義政征討に参加して「岩付御陣」から敵を追い落としたことが記されており,上杉朝宗が証判を加えている(武文)。古くより要害の地として陣を敷くのに適していたのであろう。本格的に城が築かれるようになったのは長禄元年4月太田資清が古河公方に対する押えとして「武州岩付」に城を築いたのがはじめである(鎌倉大草紙)。「廻国雑記」によれば聖護院門跡道興准后が文明18年10月頃「岩つき」を通ったことが記されている(群書類従)。その後も岩付城は太田氏の居城となり,道灌(資清の子)・資家・資頼と城主になるが,大永5年2月6日太田資頼は小田原北条氏に攻められ,また家臣金田・渋江両氏の叛により城を追われたが(上杉家文書),享禄3年回復し(上杉家文書・相州兵乱記),以後領国支配は徐々に整った。資正の時,関東管領上杉氏に従って小田原北条氏と対決し,武威大いに揚り,周辺城域を岩付領と称した。永禄7年氏資(資房)は資正・政景を追い,小田原北条氏に応じたが,その没後に岩付は小田原北条氏の支配下に服し,直轄支配後,氏政の子氏房が太田氏を継ぎ城主となった。太田氏は城下の市宿に市を立て,村国の渋江鋳物師を保護して軍事力を高め,また荒地の開発と治水を推進し,平林寺・法華寺・慈恩寺・浄国寺を外護するなど領下支配に努めた。天正14年以降岩付城の修築に力を尽くしたが,同18年5月浅野長吉らに攻められ落城した。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7285605
最終更新日:2009-03-01




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