ケータイ辞書JLogosロゴ 内野村(近世)


埼玉県>さいたま市

 江戸期〜明治12年の村名。足立郡植田谷【うえたや】領のうち。古くは内野郷水判土【みずはた】荘に属したという。正保〜元禄年間に上内野村から分村して成立。はじめ幕府領,天和2年一部が旗本新見氏の知行,元禄10年残部は旗本中山・大沢両氏の相給となる。検地は元禄10年。村高は「元禄郷帳」で123石余,「天保郷帳」123石余。村の規模は東西10町余・南北6町余。化政期の家数24軒。用水に恵まれず「水利不便時々水旱に苦しむ」(郡村誌)状態であった。悪水は東境を流れる鴨川に落としたが,同川はしばしば出水し田を冠水させたために鴨川筋10か村組合に加入し維持管理に当たった。紀伊徳川家の御鷹場支配をうけ,鳥見役北沢甚之丞預り28か村の1つで,天保年間には鷹場役人廻村費用の軽減を図るため西谷村など6か村で小組合を組織した。助郷は中山道大宮宿に出役。正徳・安永年間には日光御成街道大門【だいもん】宿への加助郷を負担。文政11年より大宮宿寄場55か村組合に所属。主要道路は与野【よの】道と大宮道。鎮守は牛頭天王社(明治初年改称して八雲神社となる)。ほかに神社は神明社。寺院は太子堂。明治4年埼玉県に所属。同9年上内野村と合併の話がもちあがったが,清河寺【せいがんじ】村飛地の処置をめぐって話合いがつかず合併に至らなかった。同12年郡区町村編制法施行に伴い北足立郡西内野村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7285685
最終更新日:2009-03-01




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