ケータイ辞書JLogosロゴ 大串郷(中世)


埼玉県>吉見町

 戦国期に見える郷村名。吉見【よしみ】郡のうち。「役帳」に江戸衆中条出羽守の所領として「八貫四百文 吉見郡 大串内北分」,松山衆狩野介の所領として「五拾貫文 同(吉見郡)大串内 家綱 同理(乙卯検地辻)」,松山衆太田豊後守の所領として「九拾五貫文 吉見郡 大串之内 乙卯検見」と見える。永禄9年10月24日の太田氏資判物写に「大串之内銀屋不作十七貫文」と見え,太田氏資が内山矢右衛門尉に大串のうち銀屋【しろがねや】などを宛行っている(武文)。同10年12月23日の北条家印判状では「大串之内銀屋」などを従来どおり保証している(武文)。これは同年8月岩付城主太田氏資が三船台の合戦で討死にしており,岩付領が北条氏の支配下に組み入れられたことを示している。同13年6月9日の北条家印判状では,大串郷が松山領に編入され,その替地として間室窪在家分11貫文の地が内山氏に与えられている(武文)。ただし同年11月27日の北条家印判状では,従来どおり「大串之内銀屋」から陣夫を動員することが認められている(武文)。天正6年3月14日の北条家印判状でも,「松山領大串之内白金屋」から従前どおり人夫1人・馬1疋を内山弥右衛門が召仕うことを承認している(武文)。大串郷は現在の吉見町大字大串・江綱・上銀谷・下銀谷一帯あたり。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7285823
最終更新日:2009-03-01




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