大瀬村(近世)
江戸期〜明治22年の村名。埼玉郡八条郷のうち。はじめ幕府領,寛文2年からは森川氏の知行。検地は寛永4年で,同4年9月24日の検地帳写に「武州騎西郡八条之内大瀬村」と見える(高橋文書)。同年,大瀬新田(古新田【こしんでん】)を分村したという。村高は「田園簿」で531石余,うち田339石余・畑191石余,「元禄郷帳」では変わらず,「天保郷帳」530石余。村の規模は東西15町・南北11町余。化政期の家数80,用水は八条用水を利用。中川に中世から戸ケ崎村(現三郷【みさと】市)へ渡る戸ケ崎の渡し,猿ケ又(現東京都葛飾区)へ渡る猿ケ又の渡しがあったが,「新編武蔵」には「村民の私に往来する所にして,公へ達せる渡津には非ず」とある。なお当村の高橋家が猿ケ又の渡番,福岡家が戸ケ崎の渡番を務めた。鎮守は氷川社。寺院は新義真言宗宝光寺。高札場は村の中央部。小名は上・下。村の南部を水戸道・水戸脇往還が通る。明治4年埼玉県に所属。同6年4月に村地内の悪水吐圦樋普請工事が行われた。また同年宝光寺に大瀬学校が開かれたが,同12年には川崎学校の分校となった。明治9年の戸数88・人口468,肥舟5・伝馬造荷舟2。物産は米・大麦・大豆・ネギなどで,これらを東京千住あたりに出荷。古新田に飛地がある。明治12年南埼玉郡に所属。同22年潮止【しおどめ】村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7285874
最終更新日:2009-03-01