ケータイ辞書JLogosロゴ 大仙波村(近世)


埼玉県>川越市

 江戸期〜明治22年の村名。入間【いるま】郡河越【かわごえ】領のうち。古くは山田荘三芳野里に属したという。中世の仙波が大仙波村・小仙波村に分かれて成立したと思われる。川越藩領。検地は慶安元年。新田検地は明暦2年・延宝3年・元禄7年。正保〜元禄年間頃,大仙波新田を分村。村高は「田園簿」では1,021石余,うち田713石余・畑308石余,「元禄郷帳」710石余,「天保郷帳」843石余。天正19年5月17日の加藤正勝へ宛てた徳川家康知行宛行状によれば,大仙波村ほかに300石が宛行われており(徳川家康文書の研究),うち72石余が当村分であった(記録御用所)。また同年5月19日の渡辺生綱へ宛てた徳川家康知行宛行状では当地において56石余が宛行われているが,同氏知行分は,文禄元年7月17日と推定される奉行伊奈忠次・同大久保長安連署の年月日欠の知行宛行状によって「武州山根筋 藤指之郷」と替地が行われていることがわかる(徳川家康文書の研究)。のち寛文2年村高を割き,200石を小仙波村東照宮へ付した。村の規模は東西12,3町・南北7,8町。化政期の家数67軒。水田が多い。村内を江戸から川越への往還が通る。神社は愛宕社・富士浅間社・氷川社など。慶長19年3月27日の川越藩主酒井忠利の社領寄進状によって富士浅間社へ中田1反・中畠1反が,また同日付の同氏の社領寄進状によって中田1反・中畠1反が愛宕社にそれぞれ寄進された(埼中・武文)。寺院は天台宗長徳寺・同天然寺。「役帳」に仙波内天念寺分として19貫文が載せられており,天念寺は天然寺のことであるといわれる。高札場はなし。小名は城ノ内・弾正屋舗・宿屋舗など。この宿屋舗は昔山田の町とよばれ,「和名抄」に見える入間郡山田と関係すると伝えられる。明治9年埼玉県に所属。同年の戸数91・人口457,馬22,荷車16・人力車1。物産は鶏・鶏卵・米・大麦・大豆など。飛地は川越町の飛地と大塚村の間,下松原村と砂新田の間,藤馬村と砂新田の間,岸村と砂新田の間,今福村・中福村・上松原村にある。明治12年入間郡に所属。同22年仙波【せんば】村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7285876
最終更新日:2009-03-01




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