ケータイ辞書JLogosロゴ 太駄郷(中世)


埼玉県>児玉町

 南北朝期から見える郷名。児玉郡のうち。建武3年12月11日の安保光泰に宛てた足利直義所領安堵状に「同(武蔵)国太駄郷」と記され,当地が安保光泰の支配下にあることがわかる。さらに暦応3年正月24日の安保光泰が嫡子泰規に与えた譲状にも当郷名が見え,安保氏の惣領職所領であることが知られる(安保文書/大日料6-3・6-6)。しかし同年8月22日の安保光泰譲状(安保文書/武文)には当郷が「三男分彦五郎事」の中に含まれ,惣領分からはずされ三男分となったのである。のち安保宗繁・満春らは安保氏の所領である「同(児玉)郡太田村」などに対し本庄左衛門入道らが遵行の旨に違背して押領している事を訴えた。応永25年3月28日の足利持氏御教書では,横瀬美作守に「重莅彼所々,可沙汰下地於宗繁・満春等」と命じている。明応7年4月日の長尾顕忠禁制では,「雲頂庵領武州児玉郡太駄村竹木山野薪等,甲乙人等剪取□条」とあり,当村は円覚寺(神奈川県鎌倉市)の塔頭雲頂庵領として見える。ここでは当村の竹木山野薪を「他所之凡下」が立入って切る事を禁じている。さらに永正4年4月20日の仁英省輔首座に宛てた久甫淳長譲状では「太駄村土貢三ケ年分集置,廿坪坊一宇可建立之也」とあり,太駄村年貢の3か年分が,円覚寺塔頭法珠院の再建費用に宛てられた。この文書には,長尾顕方の裏書があることから,先の文書と合わせて太駄村の地域が当時長尾氏の勢力下に入っていたことが知られる(雲頂庵文書)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7285888
最終更新日:2009-03-01




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