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- 大滝(中世)とは
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大滝(中世) 戦国期に見える地名周防【すおう】国玖珂【くが】郡のうち天正16年8月24日の周防大滝村田畠帳の写が伝来する(和木町誌稿)また「野坂文書」の天正17年11月10日付厳島社社家内侍等抱分付立中に,当地に厳島神社々家所左衛門大夫抱の1貫500目が,また同文書の厳島社社家内侍領等高辻覚に「大滝,一石九斗六升二合,御おんそ箱領大滝四石九斗二升三合,□□□□(所喜右衛カ)門尉」が見える(広島県史古代中世資料編3)が,おそらく同時期のものかと思われるさかのぼって,南北朝期末の康応元年3月,将軍足利義満は安芸国厳島参詣をすませて,直ちに周防国へ向かうが,この旅に随行した九州探題今川了俊が記した紀行文「鹿苑院殿厳島詣記」3月11日の条に,「おほたき川とて,安芸と周防のさかひの川の末の海づら過て,周防の国岩国ゆふむろ岡などいふ所々きたにみゆ」と見える(群書18)さらにさかのぼって「続日本紀」の天平6年9月甲戌(16日)条に「安芸周防二国以大竹河為国堺」と見える大竹川は,「地名淵鑑」に「芸州の名に因て川の名とせしやうに聞ゆれど左に非ず芸も防も大滝(大竹カ)村といへり同所両地に分れたるにや両国同名を二州へかけて名づくること疑なし」と見えることから,当時は大滝川(現小瀬川)の河道が定まらず,下流一帯は芸防両国の境域を明確にし得なかったらしい当地が川の名に由来するものとして,地名化した年代は戦国期以前にさかのぼる可能性があるが,確定的ではない現在の和木町の一部に比定される |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
大滝(中世) 戦国期に見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」