ケータイ辞書JLogosロゴ 大成村(近世)


埼玉県>さいたま市

 江戸期〜明治22年の村名。足立【あだち】郡大宮領のうち。古くは高鼻荘,または金子荘に属したという。はじめ幕府領,慶長5年旗本小栗氏の知行,延宝元年幕府領,明和5年大部分が小栗氏の知行となり,寛文年間に残部が旗本牧野氏の知行となる。検地は寛永9年。村高は「田園簿」で500石,うち田155石余・畑344石余,「元禄郷帳」578石余,「天保郷帳」578石。化政期の家数180軒。村民は村内を上・中・下の3組に分けてよんでいたが,行政上では上大成・下大成の2地区に分けられていた。寛永9年の下大成検地帳の地積は田17町5反余・畑38町8反余(大宮市史)。用水は「水利不便時々旱魃の患あり」(郡村誌)という状態で,天水を利用,余水を切敷川に落としていた。紀伊徳川家の御鷹場支配をうけ,鳥見役北沢甚之丞預り28か村の1つで,寛政11年土呂【とろ】村野原の猪鹿狩りには23人の勢子人足を徴発され,天保年間には鷹役人廻村費用軽減を図るため土屋村などと小組合を組織した。助郷は中山道大宮宿に出役。正徳・安永年間には日光御成街道大門【だいもん】宿への加助郷も負担。文政11年より大宮宿寄場55か村組合に所属。天保年間には農間余業を営むもの質屋7軒と古鉄買渡世1軒(大宮市史)があった。主要道路は中山道・与野【よの】道・川越【かわごえ】道・原市【はらいち】道。これらの道を利用して農作物を与野・川越・原市などの市へ出荷したという。幕末には紅花の栽培も行われ,仲買商人浅右衛門というものがいた。鎮守は3社あり上大成がつつじ稲荷,中大成が秋葉社,下大成が八幡社(大宮市史)。寺院は曹洞宗普門院・新義真言宗光福寺・金乗院。普門院は応永33年の起立で,開山を月江正文,開基を金子駿河守といい幕末には寺子屋が開設されていた。金乗院でも宝暦期に寺子屋が開かれている。高札場は上組と下組とに各1か所。小名は躑躅山・西馬場・鍛冶屋堤・上組・下組など。明治4年埼玉県に所属。明治9年の戸数134・人口746,馬7,人力車2・荷車27。中小村田・上落合・加茂宮・大宮宿入会の地に飛地があった。物産は米・オカボ・大麦・小麦・甘藷・製茶・薪木など,米・大麦・小麦・甘藷・茶・薪木を出荷。明治12年北足立郡に所属。同22年日進【につしん】村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7285954
最終更新日:2009-03-01




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