ケータイ辞書JLogosロゴ 大宮宿(近世)


埼玉県>さいたま市

 江戸期〜明治22年の宿名。足立郡大宮領のうち。古くは高鼻【たかはな】郷に属したという。中山道67宿の1つ。「田園簿」「元禄郷帳」「天保郷帳」には大宮町と見え,「新編武蔵」「旧高旧領」には大宮宿と見える。近世初頭には土手宿【どてじゆく】村・高鼻村を包含して大宮之村と称していた。享保年間以前の史料には大宮町と見え,それ以降は大宮宿と見える。文禄3年土手宿村,正保〜元禄年間に高鼻村が分村し,堀ノ内・北原2か村を合併。元禄年間以降本村・北原・甚之丞新田・右衛門八分・新宿中町・新宿下町・吉敷新田の7組に分かれ,大宮宿と総称。各組には名主・百姓代が置かれた。幕府領,享保年間の頃,新宿中町の一部が見沼用水路堀敷潰地の替地として旗本伏見氏の知行となる。他に氷川神社領があった。検地は天正20年(本村のみ),寛永6年,新田の検地は享保16年・延享2年。町高は「田園簿」で475石余,うち田83石余・畑392石余,「元禄郷帳」では7組合わせて1,058石余,「天保郷帳」では7組合わせて1,292石余。江戸日本橋へ7里16町,浦和宿へ1里10町,上尾【あげお】宿へ2里。宿の規模は東西34町・南北50町。家数は文化6年270軒(七組明細帳/大宮市史),天保14年319軒(中山道宿村大根元帳/大宮市史)。本陣1・脇本陣9・旅籠25,人馬継問屋場は宮町・大門町・中町・下町の4か所。宿立人馬50人・50匹,うち囲人馬5人・5匹。宿の本陣は当初内倉新右衛門家がつとめていたが,安永4年の大火以後は山崎喜左衛門家がこれに代わった。当初の中山道は氷川神社の参道を通っており,伊奈備前守忠次の指揮で百姓屋敷42軒に地子を免じ人馬継立てをさせたという。のち宿駅繁多となったため,寛永5年伊奈忠治は,一の鳥居から北方へ真直に原野を開いて現在の中山道を開通し,両側を地割して氷川参道沿いにあった百姓屋敷を移転させた。翌6年検地を行い6万4,313坪余の地子を免じ伝馬役50人・50匹を負担させた。寛文8年には周辺8か村を定助郷村に指定,高2,300石とした。しかしこれらの定助郷村では交通量の増大に十分対応できず,元禄7年大宮領・吉野領・植田谷【うえたや】領・与野【よの】領などの村々50か村を定助郷村に指定,高1万1,827石とした。この他紀伊徳川家の御鷹場支配を受け,鳥見役北沢甚之丞預り28か村に組み入れられていた。鷹場本陣は北沢甚之丞家,同脇本陣は松本万右衛門家に置かれた。両家は代々御鳥見役を仰せ付けられた旧家で,大宮宿の問屋名主もつとめている。高札場は新宿中町にあった。安永4年の大火は北沢大火ともいわれるように火元は鷹場本陣の北沢家で,焼失家屋85軒・類焼総建坪3,414坪に及ぶ宿草創以来未曽有の大火であった。宿には5日と10日に市が立って繁昌したが,幕末には「市相立兼申候」という状態であった。中山道から分岐している道のうち主要なものには川越【かわごえ】道・岩槻【いわつき】道・原市【はらいち】道・与野道があった。東を流れる見沼代西縁用水と芝川は舟運にも利用され,前者には堀の内河岸,後者には新河岸が設けられ,年貢米の津出しや紅花などの特産物を江戸へ輸送した。この見沼の舟運は明治6年見沼通船会社となり,昭和6年まで続いた。明治5年の業種調べから主なものをあげると車夫22軒・菓子商21軒・煮売商17軒・旅館13軒・飯売旅籠13軒・荒物9軒・魚屋8軒・馬子8軒・大工8軒・機屋7軒・質屋6軒・豆腐屋6軒・髪結5軒・木賃宿4軒・酒屋4軒・卵屋4軒・建具屋3軒・桶屋3軒・畳屋3軒・油屋3軒・左官3軒・杣3軒・蝋燭屋3軒など。明治4年埼玉県に所属。同7年1村同様の事務取扱いをしていた持添の大宮領新宿村・大宮領新右衛門新田を併合した(合併史)。同9年の戸数421・人口1,376,馬11・伝馬船4・人力車98・荷車16・農車19。土呂・本郷・加茂宮・土手宿・大成・高鼻6か村の間と,土手宿・大成2か村の間に飛地があった。明治初期宿の中央の民家を仮用し,本村・高鼻村・上天沼村・下天沼村・土手宿村連合の公立小学校を設立,生徒数182。物産は,米・大麦・大豆・甘藷で,甘藷を出荷。同12年北足立郡に所属。同18年日本鉄道会社により東北線が開通,大宮駅が開設され,同16年すでに開通していた高崎線との分岐点となる。明治22年大宮町の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7286015
最終更新日:2009-03-01




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