尾ケ崎村(近世)
江戸期〜明治22年の村名。埼玉郡岩槻領のうち。古くは騎西【きさい】荘あるいは笹久保郷,または払上郷に属したという。村内勝軍寺の天正19年11月の「朱印状写」には「武蔵国崎西郡篠久保郷」とあり,慶長17年3月の「御摩堂領御検地帳」には「武蔵国崎西郡黒谷之内尾ケ崎郷」とある。岩槻藩領。検地は寛永7年。村高は「田園簿」で590石余,うち田426石余・畑164石余,ほかに幸性寺(光秀寺)領3石。「寛文印知集」には「尾崎」とある。延宝8年の村高524石余,人口男149・女123,家数本百姓20軒・水呑25軒,寺数3。岩槻城の支配筋は下郷筋に属す(吉田文書)。貞享3年には村高727石余・新田64石余,また野銭永29文・藍瓶役鐚248文・見取場田畑8反2畝23歩(松平文書)。元禄末期の小笠原氏の支配時の村高は486石余で,うち30石は名主・組頭の役高。岩槻城の支配筋は平林寺筋であった(光山文書)。「天保郷帳」では657石余。村の規模は東西7町・南北13町余。化政期の家数80軒余。用水は元荒川の水を引く。村の南を日光御成街道下道が通る。高札場は村の中央。鎮守は八幡社,寺院は天正19年寺領3石拝領の新義真言宗勝軍寺・同智性院・曹洞宗光秀寺。なお光秀寺は,太田氏房の家臣三上三郎左衛門の開基という。明治4年埼玉県に所属。同9年の戸数87・人口408,馬8,荷車4。物産は米・大麦・小麦・大豆,余りは岩槻町へ出荷。同12年南埼玉郡に所属。同22年新和【にいわ】村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7286089
最終更新日:2009-03-01