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「小川」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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小川村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
小川村(中世) 鎌倉期に見える村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
小川村(近世) 江戸期の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
小川(中世) 鎌倉期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
小川村(中世) 南北朝期~織豊期に見える村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
小川村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
小川山村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
小川村【おがわむら】 (中世)南北朝期から見える村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
小川村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
小川村(中世) 南北朝期から見える村名小河とも書く磐城郡のうち初見は延元元年8月26日の相馬胤平軍忠状で,「為凶徒小河松山誅戮,可発向之由,重被仰下之間」とあり,北朝方の相馬胤平は小河・松山に凶徒を征伐するよう命じられている(相馬文書/県史7)貞和4年10月8日の小河義雄寄進状に「ミちのくにいわきのこほりににし小川村内」と見え,村内の畑5反を長福寺に寄進している(長福寺縁起所収文書/県史7)なお西小川村は西夏井川左岸を指したものと思われる応安7年10月18日のれうき寄進状に「みちのくにいわきのこほりのうち,おかハのむらのちやうふくしにきしんするてんちの事」と見え,田2反が長福寺に寄進されたことがわかる(同前)応永9年3月晦日の小河久義寄進状に「あふしういわきのこほり小河長福寺本尊地蔵菩薩に永代きしん申候」と見え,小河久義が田地を小河長福寺に寄進したことがわかる(同前)応永15年12月29日の小河源正寄進状に「奥州岩城郡小河長福律寺」と見え,小河源正が小河にある長福寺に田畑などを寄進したことがわかる(同前)応永19年4月13日の庄司宗秀寄進状に「奥州岩城郡小河村元山内一宇」と見え,庄司宗秀が小河村の一宇を長福寺に寄進したことがわかる(同前)永享9年3月3日の小河道弘畠地売券では「下小河寺内畠二たん」を直銭3貫文で売渡している(同前)嘉吉3年正月11日の岩城隆忠寄進状に「奥州岩城之郡小河村内」と見え,岩城隆忠が長福寺本寺領を安堵し,当村中の買地を添えて長福寺に寄進しており,隆忠が小川氏を支配下に入れたことを示している文安3年6月8日の小河浄宗等二人連署寄進状にも「奥州岩城之郡小河村之内下小川にしさくの田」と見え,寺領を寄進している(同前)同4年10月20日の刑部大輔昌隆押書に「一,窪田小河之事,就諸事,不可有子細候」と見える(遠藤白川文書/県史7)当地の領主小川氏は長福寺縁起に「義綱ハ常陸佐竹常陸介義胤ノ三男,母岩崎氏,小河ノ郷ヲ領シ小川三郎ト称ス」とあり(県史7),佐竹の支族で,はじめ岩崎氏についたが,のち岩城隆忠に従っているおそらく当地は元来岩崎氏領であったが,鎌倉末期婚姻により佐竹氏領になったものと思われる浜通り南部,現在のいわき市小川町に比定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
小川島村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」