ケータイ辞書JLogosロゴ 忍(中世)


埼玉県>行田市

 戦国期に見える地名。埼玉郡のうち。「新編武蔵」は「小田原記」「関八州古戦録」に基づいて,成田親泰が忍に入って築城したのは文明年中であろうという。連歌師柴屋軒宗長の「東路の津登」は,永正6年(推定)に成田顕泰(文明16年没)の亭を訪ね,「水郷なり。館のめぐり四方沼水幾重ともなく,芦の霜枯三十余町四方へかけて,水鳥,雁多く見えわたるさま云々」と描写しており,おそらくこの頃の忍城の情景はこうであったと思われる。天正8年12月1日の北条氏邦印判状「塩荷可押所定事」(武文),年未詳の「都右他四名連署書状」(同前)に「忍御領分」とか「忍よりの御状之儀」とあるのは,この忍城を指したものであろう。天正18年に豊臣秀吉の軍勢が当地の寺院に発給した禁制には,寺院所在地名の上に「忍之内」と冠したものが多く,「忍」は「忍領」と同義に,かなり広い地域の名称として使われていたと推定される。天正18年の時点では,浅野家文書に「忍之城被責崩之由」など数通,伊達家文書に「新田,ふかや,おし,江戸,河越,佐野,足利已下悉相済」とあり,いずれも小田原攻略戦に関連した文書である。忍の攻城戦は「関八州古戦録」「北条五代記」「忍城戦記」などに記され,豊臣秀吉の部将石田三成によって水攻めの戦術が採用されたので有名であった。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7286147
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ