前方一致 全文(カスタム検索)
Guest Guest
  1. JLogos検索辞書>
  2. 鍛冶町(近世)とは

「鍛冶町(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

鍛冶町(近世)


江戸期の町名川越【かわごえ】城下の下五ケ町および川越十ケ町の1つ南町の南に位置する天文・弘治年間頃鍛工平井という者が相模国より移住し,その門人10名余が居住した...

全文を表示する


[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7286300]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

◆関連辞書(JLogos内)


  1. amazon商品リンク
鍛冶町(近世)

江戸期~明治6年の町名江戸期は前橋城下町人町の1町貞享元年の「前橋風土記」による城下町19町のなかに町名が見える(県史料集1)本町の南に位置し,西は田町,東は片貝町と接する町名は鍛冶屋が集住したことに由来するこの付近は,上杉謙信当時からの町人町ともいう(前橋新風土記)文政4年の天川原村分間絵図などでは,天川原村分のうちとして扱われているが,これは城下町形成時に天川原村内に町割りされたことによるものと思われる安永9年11月16日の大火記録(松平藩日記)によると,当町の総家数22,このうち21軒が焼失している寛政2年の家数人別書上帳(前橋市立図書館蔵文書)では,組数3,家数16・竈数16,人数は男29・女30文政4年の前橋総町絵図(勝山氏蔵文書)では,面積1町1反余,家数26で,前橋城下町では面積・家数ともに小規模な町屋であったそのため人足を出す時は白銀町と合わせて1町分とすることもあった(向町御用日記)ただし寛政年間頃には町名主1・組頭3が置かれていた(寛政元年惣町寺社人別帳)なお文政12年の諸職人元帳には桶師3・大工2が見え(勢多郡誌),天保7年には質屋1もあった(下川淵村誌)慶応4年~明治元年にかけては米穀商2が見える(松井家文書)が,鍛冶職人は確認できないなお嘉永2年鍛冶町と紺屋町に7か年の年季を限って春秋2回の馬市が再興されたこれは,農村の復興気運に乗じて馬の需要がふえたためであり,また町としても活気を呈すため,文久3年には馬1頭につき永250文上納を条件に馬市継続を願い出て許可されている(同前)一説に明治5年ともいうが(前橋のあゆみ),同6年相生町となる

全文を表示する

出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鍛冶町(近世)
江戸期~明治9年の町名上田城下の一町城下町の東端部にある町人町房山・常田両村の一部へ,元和元年頃本海野から鍛冶職人を移住させてできたため,町名を鍛冶町とした南は横町に続き,北は房山のうちの瓦焼(のちの川原柳)通りにぶつかり丁字路をなす西は田町・大工町東側には2寺がある日蓮宗本陽寺は,もと小諸城下にあり,城主仙石秀久の嫡室野々村氏(法名本陽院殿繁室妙栄大禅定尼)冥福のため建てられ,仙石氏の上田入封に際して現地に移された境内に鬼子母神と三十番神社がある曹洞宗月窓寺は,もと常田荘にあったが,天正13年上田合戦の折に焼かれ,鷹匠町へ移され,さらに同15年現地に再建されたという境内に赤松小三郎遺髪の碑がある寛文3年の上田領戸口改(県史近世史料1-1)で,戸数42,人数は男130・女106,奉公人9,出家・山伏37の合計282宝永3年の上田御城下差出帳(同前)では,戸数49,人数は男245・女196・出家25の合計466同7年は戸数50・人口434,宝暦5年は戸数52・人口461(上田市史)さきの宝永3年の差出帳では町名を証するように鍛冶32人が記録されているが,明治5年には16人と半減している紺屋は,宝永3年に1人であったが,明治5年には7人となっているなお城下移住時,鍛冶職人は領主真田氏から1人に籾3俵ずつを与えられ,さらに鍬の製造権独占を認められて保護されたこの鍬は「上田海野の鍬」と呼ばれ,元禄年間~宝永年間頃までは有名で,広く信濃一円で販売され,さらに上州や越後にまで及んだ明治9年上田町の一部となるなお現在も通称として用いられている...

全文を表示する

出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鍛冶町(近世)
江戸期~明治22年の町名結城城下22か町のうち鍛治町とも書く御免地外構堀,俗称御朱印堀のうちの最北隅にあたり,下野【しもつけ】多功・宇都宮街道の両側の家並みによって構成され,屋敷地は地子免除の特権をもっていた設立の時期は文禄年間~慶長年間に結城秀康が新城下町を建設したとき町名は町割の際に鍛冶職を中心とする職人集団が住んだことにちなむと思われるが,近世後期・近代には鍛冶職は1軒もなかった元禄4年の結城町町中間数・家数・屋敷町歩書上帳による間数は34間半(赤荻和弥家文書/結城市史)宝永5年の結城町明細帳控によれば,家数67軒,うち13軒店借・18軒寺門前・番屋1か所・研鞘師1(田宮佐兵衛家文書/結城市史)宝暦5年の町村惣商人仲間議定連署帳によれば,町内では最も多くの商人がおり,くわや3・あめや2・くわしや2・たひや1・あら物や1・あま酒や1・あぶらや1・わた実1・わた買1・米や1・ろくろや1・たるや1・かごや1・たこや1・かまや1のほか,19名の小商人がいた(本多新次郎家文書/結城市史)曹洞宗結城山安穏寺は,天平年間~宝治年間頃祚蓮律師の開山と伝え,もと律宗に属し,朱印高53石で,那須殺生石の伝説で著名な源翁和尚を中興開山とする秋葉神社は寛文2年の創建で安穏寺持ちであった(結城の郷土史)明治22年結城町結城の一部となる...

全文を表示する

出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鍛冶町(近世)
 江戸期~明治22年の町名...

全文を表示する

出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鍛冶町(近世)
江戸期~明治初年の町名郡山城下の1町で,内町27町の1つ郡山城の東,外濠の内側,城下町の北東部に位置し,西は魚町・本町に接する北鍛冶町は南北通りだが,中鍛冶町・南鍛冶町は東西通りの街区町名の由来は,鍛冶屋が集住していたことにちなむ本町の枝町であるが,すでに天正16年の郡山惣町分日記(春岳院文書)に鍛冶屋町として町名が見える城下の北出口にあたるため,大門があった元禄12年1月の大火で家持10軒・借家28軒を焼失享保9年の和州御領郷鑑によれば,造酒屋として八尾村屋治兵衛後家(造高70石)の名が見え,また医師4人(本道2・針医1・歯医師1)がおり,寺は浄土宗竜巌寺,また当山派山伏の玉蔵院がある安永6年の家数306(郡山藩旧記)天明年間~寛政年間の検地地図によると,町の長さは東西通り南の筋56間余,東西通り北の筋50間余,南北通り89間余,道幅は東西通り南の筋3間1尺,東西通り北の筋1間5尺,南北通り2間1尺,家数89(大和郡山市史)明治初年北鍛冶町・中鍛冶町・南鍛冶町に分かれた...

全文を表示する

出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鍛冶町(近世)
 江戸期~明治22年の町名...

全文を表示する

出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鍛冶町(近世)
 江戸期~明治19年の町名...

全文を表示する

出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鍛冶町(近世)
江戸期の町名大山城下のうち大山城は元和8年廃城,同年庄内藩領,慶安2年大山藩の城下となり,寛文9年からは庄内藩領城下東部に位置する寛永19年の検地帳(大山町史)によると当町の石高所有状況は,14名のうち0~1石11名,1~5石・5~10石・10~20石各1名寛文9年御家数并人数調(栗本文書/大山町史)では家数24軒弘化3年家数人数寄帳(大滝文書/大山町史)の家数26軒,うち百姓22・水呑4,人数111うち男55・女56明治4年の人馬人別家数調(大山町史)の家数34軒,人数162,雄馬1天保13年の大山村本町酒造店書上(大滝文書/大山町史)では当町の酒造人に,六兵衛(酒造元株高20石・酒造米高78石余)・与治兵衛(同株高25石・同米高45石余)が見える明治10年の職業別戸数(大山町史)は,28戸のうち農業1・工業9・商業12・雑業6...

全文を表示する

出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鍛冶町(近世)
江戸期の町名松代城下の一町城下の東部に位置する町人町の中心をなす8町は町八町と総称されたが,その一つである町名の由来は,鍛冶屋が集住したことにちなむ寛文11年松代町間改帳によると,家数39,町役として伝馬のほか,御城障子張出し人足・御馬屋かまぬり人足・極月御餅つき人足・町寄合普請人足などを勤めた(県史近世史料7-2)安政7年の戸数67・人数275(松代町史)明治初年に遊女屋ができたが,まもなく禁じられる料理屋が多い明治4年廃藩置県以後は松代町の一町となり,現在も長野市松代町松代のうちの字名の一つとして鍛冶町がある...

全文を表示する

出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鍛冶町(近世)
江戸期の町名長岡城下の1町城の北,神田町の北隣元和8年の江戸初期の町割にはなく,神田三ノ町の北辺にあった荒地が次第に開発され町屋ができていったものと思われる(長岡の歴史)町の中央には新潟へ通じる北国街道が通り,町の北境には木戸があって新町村との境をつくり,城下と在郷村との区別をしていた地名は長岡城の北西部にあった蔵王権現の鎌王神の御神体や神具を鍛造した職人がいたことによるという安政年間の家数は屋町15とある(長岡城並ニ町割絵図)慶応3年神田三ノ町に合併...

全文を表示する

出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鍛冶町(近世)
 江戸期~明治22年の在方町名...

全文を表示する

出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

西暦2024年(平成36年)
420曜日
新着時事用語
リースバック(住宅)の注意点
┗リースバックとは、自宅不動産を事業者に売却して即資金化しつつ

自筆証書遺言書保管制度
┗自筆の遺言書を法務局で保管してくれる制度のこと。2018年に

アポ電詐欺・強盗
┗ 高齢者を狙った詐欺犯罪の手法。オレオレ詐欺の一種とされる場

高輪ゲートウェイ
┗JR東日本が2020年に新設する駅名。田町駅と品川駅の間、東

不用品回収
┗ 部屋の片付けや老前整理・生前整理・遺品整理等で、業者が家庭

所有者不明土地
┗ 永年相続登記(不動産の名義変更)が行われずに、登記簿上で所

遺言控除
┗ 有効な遺言書による相続となった場合、相続税の基礎控除額に上

今日を知る

今日の記念日

『逓信記念日、女子大の日』

1901(明治34)年、日本初の女子大学である日本女子大学校(現在の日本女子大学)が開学しました。

今日の暦

月齢:11

月齢:11
月名(旧歴日):十日余りの月(とおかあまりのつき)

・2024年(年/竜)
・4月(卯月/April)
・20日
・土
・Saturday
・友引

二十四節気:「穀雨<
・a>」から<
・font>1日「
立夏<
・a>」まで<
・font>15日


JLogos Now!!