ケータイ辞書JLogosロゴ 金窪村(近世)


埼玉県>上里町

 江戸期〜明治22年の村名。賀美【かみ】郡のうち。古くは金窪郷忍保【おしぼ】荘に属したという。元禄年間に黛【まゆずみ】・忍保・毘沙吐【びさど】の3か村を分村。天正19年,甲斐国(山梨県)武田氏の一族で,川窪氏を名乗る川窪信俊の知行となり,元禄11年黛・忍保・毘沙吐各村の分村と同時期に,一部は幕府領,他は旗本伊東・筧・古田・吉良・長塩氏の相給となる。村高は分村前の「田園簿」では1,678石余,「元禄郷帳」「天保郷帳」では796石余。村の規模は東西15町余・南北20町余。水利は矢田清水。村内を中山道と三国往還が通り,上野国(群馬県)に至る。鎮守は八幡社,神社はほかに稲荷社など5社。寺院は曹洞宗崇栄山陽雲寺・同法西寺・新義真言宗金西寺など。陽雲寺は,元弘2年の創建で崇栄寺と号し,戦国期に金窪城主斎藤盛光・定盛が再興したが神流川合戦で焼失,その後天正19年から武田信玄夫人三条氏が当寺に閑居したため,三条氏の法号を取り陽雲寺と改めた。当寺は元和5年に寺領25石を拝領したという。また,寺内には元禄8年銘の銅鐘が残る。高札場は3か所。文化年間に金久保と改称したという(郡村誌)。明治9年埼玉県,同12年賀美郡に所属。同9年の戸数158・人口629,馬24・渡船2。陽雲寺に公立小学校があり,生徒数72。物産は繭・蚕卵紙など。明治22年賀美村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7286379
最終更新日:2009-03-01




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