ケータイ辞書JLogosロゴ 上加村(近世)


埼玉県>さいたま市

 江戸期〜明治22年の村名。足立【あだち】郡吉野領のうち。古くは水判土【みずはた】荘に属したという。はじめ幕府領,慶長13年旗本内藤氏の知行,元和3年5月26日旗本内藤氏は「武蔵国安立郡上賀村五百石」を含む1,000石の知行宛行状を賜わっている(記録御用所)。寛文6年からは幕府領。検地は慶安4年・元禄3年,新田の検地は享保16年。村高は「田園簿」で495石,うち田87石余・畑371石余,36石余の高不足,「元禄郷帳」554石余,「天保郷帳」555石余。村の規模は東西20町・南北18町。化政期の家数50軒。「水利不便時々旱に苦しむ」(郡村誌)という状態で用水に恵まれず,田はいわゆる天水場で余水は切敷川や鴨川に落としていた。鴨川流域の田は通称ドブッタ或いは底なし田とよばれ摘田が行われていた。また鴨川は大雨によりしばしば出水し,享保年間に開かれた新田も廃潰となってしまった。鴨川悪水10か村組合に所属し維持管理にあたったが,下流村々とはたびたび出入りを起こした。江戸期の特産物は紅花と甘藷。紅花は近在の仲買商人が買次ぎ桶川【おけがわ】宿の問屋を経て江戸や京に出荷され,甘藷は直接鴻巣【こうのす】宿の問屋へ出荷されていた。紀伊徳川家の御鷹場支配をうけ,鳥見役北沢甚之丞預り28か村の1つで,寛政11年土呂【とろ】村野原の猪鹿狩りには23人の勢子人足を徴発され,天保年間には鷹役人廻村費用負担軽減のため飯田村など3か村と小組合を結成した。助郷は中山道大宮宿に出役。文政11年より大宮宿寄場55か村組合に所属,名主浅右衛門は小惣代をつとめた。主要道路は与野道・原市【はらいち】道。年貢米の津出しは荒川筋の平方【ひらかた】河岸を利用。鎮守は満宮寺持の氷川社。ほかに神社は神明社・御霊社など4社。寺院は新義真言宗の満福寺・東光寺・満宮寺・三蔵院と天台宗の松原寺。満福寺ははじめ寺領10石が寄進されていたが,寛永18年には5石に減ぜられた。また村民の菩提寺で,文化年間以降寺子屋が開設された。満宮寺は氷川社の別当で享保年間に創設された新秩父札所の20番札所であったが,東光寺・三蔵院同様明治初年廃寺となった。高札場は村の中央。小名は高屋・松原・東谷・一本松など。明治4年埼玉県に所属。明治9年の戸数71・人口374,馬13,藻苅船2,荷積車11。下加村・西谷村に飛地があった。学制施行後満福寺を仮用し公立小学校(上加学校)開設,生徒数83。物産は米・オカボ・大麦・小麦・大豆・甘藷・菜種など,その大部分,特に甘藷を多く出荷。明治12年北足立郡に所属。同22年日進村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7286512
最終更新日:2009-03-01




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