ケータイ辞書JLogosロゴ 北根村(近世)


埼玉県>花園町

 江戸期〜明治22年の村名。榛沢【はんざわ】郡鉢形【はちがた】領のうち。古くは萱苅荘北根郷に属したという。上杉氏の家臣であった宇野常慶が信濃合戦の敗軍後,当所に帰農して開発した村という。慶長11年極月(12月)20日,名主宇野図書が奉行所に宛てた訴状中に「北根之郷」,元和4年6月21日の同人訴状本文中に「きた禰と申かう」とある(宇野家文書)。慶長期からは村名とされたようで,慶長16年9月26日の田畠屋敷書上に「北根村」と見える。元和4年6月の訴状は「北根之村」と書く(宇野家文書)。はじめ幕府領,慶長年間に旗本日根野氏へ分給,残りを元和年間旗本岡田氏に分給し,相給地となり幕末に至る。検地は慶長16年・寛文元年の2回。村高は「田園簿」では40石余,うち田8石・畑32石余。「天保郷帳」では52石余,以後変わらず。村の規模は東西10町,南北2町余。化政期の家数24軒,安政2年は15軒・人口60人(宇野家文書)。鎮守は稲荷社,寺院には新義真言宗根竜寺がある。物産は米少々と大豆・荏・ゴマなどの畑作物のほか「絹太織出来仕候,但江戸出しニ而者御座無候,所払ニ仕候」と自給自足的経済を維持した(宇野家文書)。幕末には小麦・ソバ・芋のほか薪なども産出。名主は宇野氏が世襲し,日根野氏の郷代官も務め,その役宅は現在県史跡となっている。明治9年埼玉県,同12年榛沢郡に所属。明治9年の戸数25・人口112,同17年24戸・119人。明治22年花園村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7286938
最終更新日:2009-03-01




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