ケータイ辞書JLogosロゴ 小仙波村(近世)


埼玉県>川越市

 江戸期〜明治22年の村名。入間【いるま】郡河越【かわごえ】領のうち。古くは山田荘仙波郷三芳野里に属したという。中世の仙波が大仙波村・小仙波村に分かれて成立したと思われる。はじめ川越藩領,慶長17年からは喜多院領。喜多院領となってからは幕府役人の干渉をうけず,御神領ともいわれた。村高は「田園簿」では579石余,うち田371石余・畑208石余,「元禄郷帳」500石余,「天保郷帳」750石余。村の規模は東西15町・南北□6町。化政期の家数86軒。用水は湧水を利用。西方の松郷に飛地がある。当村の天台宗喜多院は往古仙芳仙人が住したという地にあり,開山は慈覚大師,再建は尊海,中興開山は天海僧正と伝える。寺伝によれば,慶長17年徳川家康が天海に再興を命じ,朱印500石を付し,数多くの堂塔伽藍が造営されたという。のち寛文元年には大仙波村において朱印200石を拝領し,ほかに除地50石が認められた。喜多院のほかに天台宗中院・南院があり,中院は永禄の頃までは繁栄したが,江戸期には喜多院御神領のうち30石を,また南院は20石を配当されていた。また成就坊・仙境坊・広仙坊・星行坊・明星坊・常蔵坊・心鏡坊の7坊もおのおの10石を配当されていたという。村内の東照宮は元和3年,徳川家康の遺霊を久能山から日光へ移す際に喜多院に4日間逗留し供養を行ったので,寛永10年に天海が創建。喜多院が別当寺である。村内には本山派修験金剛院もある。旧家は新左衛門・平左衛門・甚之助・太郎右衛門の4家で御宮役などを勤める時には帯刀を許され,村役をも兼帯したという。高札場は村の南西部。小名は蓼・琵琶橋町・弁天町など。明治初年南院を仮用して公立小学校を開校,生徒数100。明治9年埼玉県に所属。同年の戸数117・人口587,荷車24。物産は米・大麦・茶。同12年入間郡に所属。同22年川越町の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7287307
最終更新日:2009-03-01




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