ケータイ辞書JLogosロゴ 庁鼻和(中世)


埼玉県>深谷市

室町期に見える地名「ちょうのはな」とも読み,また固庁鼻・庁鼻祖・庁鼻とも書く県北部,唐沢川右岸の台地上に位置する応永24年正月日の別府尾張入道代内村勝久著到状に「去二日馳参庁鼻和御陣」とあり,武州北白旗一揆に属する別府尾張入道代内村勝久が上杉禅秀の乱に際し活躍したことが述べられており,関東管領上杉憲基が証判を加えている(別府文書)応仁2年3月5日の旦那所在注文案には河関田また三郎二郎の旦那知行分在所として「一,西ちやうのはな一円,一,東ちやうのはな一円」とある(熊野那智大社文書)また文明17年堯恵の「北国紀行」にも「ちやうのはな」が見える(群書類従)当地は深谷上杉氏の祖憲英【のりふさ】が住んでいた所で,憲英・憲光・憲信の3代は庁鼻和上杉氏とよばれている憲信の子房憲は深谷【ふかや】城(木瓜城)を築造し,以後深谷上杉氏とよばれるようになった憲英は康応2年常興山国済寺を建て,峻翁令山禅師を請じて開山とした(新編武蔵)と伝え,江戸期以降当地は国済寺村とよばれるようになった現在の深谷市大字国済寺のあたり
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7287346
最終更新日:2009-03-01




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