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「堺町(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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堺町(近世) 江戸期~明治7年の町名伏見町のうち南組材木町の6町の1つ竹田街道東2筋目,外濠の外側の町で北は桝形町,外濠が西側を南下し当町の南方で西へ曲折している城下町時代は町家地であったが(豊公伏見城ノ図),江戸期になると,下板橋西詰の堺町中央部が松平大隅守邸になった(山城国伏見街衢並近郊図)「京羽二重織留」では松平薩摩守,「伏見鑑」では薩摩中将の屋敷と記される当町は濠川沿いの浜地で,荷揚げ場所になっており(新市域各町誌),また伏見西浜問屋が居住江戸中期には木屋七兵衛・車屋惣右衛門・吹田屋五兵衛・日野屋喜兵衛の名が見られる(伏見鑑)幕末には水野武一郎が習字・読書を教える塾を開いていた(日本教育史資料)なお,慶応4年鳥羽・伏見の戦で薩摩藩邸が兵火にあい,その後は民有地になったが,幕末の薩摩藩邸は討幕派の志士たちが身を隠し,京・大坂に暗躍する拠点になっていた天保頃の軒数は21軒(伏見町誌)明治元年10番組,同5年伏見第9区に所属明治7年西方木挽町筋の堺町と区別するため東堺町となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
堺町(近世) 江戸期~明治22年の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
堺町(近世) 江戸期~明治7年の町名伏見町のうち北組坪井組16町の1つ木挽町筋に沿い松屋町の南,大津町の西に位置する文禄年間に耕地や池沢の堤を開いたと伝える地域で(府地誌),豊公伏見城ノ図では木挽町筋の東は高木大津屋敷,西側は町家地となっている寛文10年山城国伏見街衢並近郊図によると町の東南部に松平右衛門佐屋敷があり,あとは町家地であるこの松平屋敷も江戸中期には姿を消す安永8年刊「伏見鑑」は当町をふくむ八幡町から成【なる】町までを「右八丁を木挽町筋といふ」と注記慶長18年に開削された高瀬川を主として薪炭や材木を運送する高瀬舟の船頭・舟子・綱曳きなどが居住し,労働者街を形成していたことによる(新市域各町誌)明治~大正期鉄道輸送が高瀬舟運にとって代わるまで,木挽町筋はにぎわいを示した(同前)天保頃の軒数は24軒(伏見町誌)明治元年9番組,同5年伏見第11区に所属同7年西堺町と改称... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
堺町(近世) 江戸期~明治初年の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
堺町(近世) 江戸期~明治4年の町名名古屋城下の1町名古屋城から熱田に通じる本町筋にある門前町の東側に位置する北は裏門前町,南は飴屋町に隣接するもとは前津小林村のうちに属した曹洞宗功徳院・同宗竜雲寺・日蓮宗玄乗寺(のち首題寺)の各門前などからなる竜雲寺地子は寛文3年,玄乗寺地子は貞享3年,功徳院地子は寛政7年それぞれ町家となった(尾張志)堺町の町名は,かつて当地が日置村と前津小林村の境であったことに由来する(名古屋市史)明治4年裏門前町の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
堺町(近世) 江戸期の町名伊丹【いたみ】村(伊丹町)を構成する27か町の1つ境町とも書く元禄年間までに成立旧有岡城侍町地域の南縁に位置する天明6年には木綿屋徳三郎ら2人の江戸積酒造人が居住していた元治元年には加茂屋ら5人の酒蔵があった(有岡古続語/伊丹市史4)現在の伊丹市伊丹3・5丁目の一部にあたる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」