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- 下小坂村(近世)とは
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![]() | 下小坂村(近世) 江戸期~明治8年の村名山鹿郡のうち菊池川支流の岩野川中流左岸の山間に位置する熊本藩領村高は「旧高旧領」284石余もとは小坂村の一部で,同村が上・下2か村に分かれて成立「肥後国誌」では,山鹿手永内に小坂村と上小坂村が掲げられ,小坂村に「里俗下小坂村ト云」と付すその高284石余,小村に向坂村・岩下村・大河村・胡麻野村・河久保村・平原村などがあるなお「肥後国志草稿」は,この小坂村には「里俗ハ上小坂村と云」と付し,当村の高は,「肥後国誌」の上小坂村にあたる706石余とする(山鹿市史)文政9年の山鹿手永高物成并惣軒数等書付(肥後国郷村明細帳2)によれば,竈数37・人数205,馬33,質屋1人・馬口労1人・杣1人・屋根葺1人・石工1人,地筒3人,給人織部殿とある熊本県を経て,明治5年白川県に所属同8年小坂村の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 下小坂村(近世) 江戸期の村名常陸国茨城郡のうち那珂川の支流西田川流域の山間に位置するはじめ上小坂村と1村で,慶長7年頃上・下に分村水戸藩領村高は,寛永12年「水戸領郷高帳」270石余(ほか新田28石余),「元禄郷帳」448石余,「天保郷帳」461石余「水府志料」によれば,増井組に属し,戸数40,村の規模は東西20町余・南北10町余人家は東西15町ほどの間に南向きにある鎮守は笠宮明神と飯野宮明神笠宮明神は,神体が笠の形をした石なので笠宮といい,永正9年佐竹氏の一族高久義有の建立静神社の祭礼には笠宮から榊を送る習わしがあった天保年間小坂【おさか】村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」