ケータイ辞書JLogosロゴ 下宝来村(近世)


埼玉県>さいたま市

江戸期〜明治7年の村名県東部,荒川左岸の低地に位置し,荒川のつくった自然堤防が南北に広がる足立【あだち】郡指扇【さしおうぎ】領のうち古くは橘荘に属したという古くは宝来野と称して指扇領村々入会の秣場であり,「田園簿」には宝来野として野高106石余がある天和2年,領主山内氏が新たに荒川水除堤を築き,開墾して上宝来村・下宝来村として村立て宝来は蓬来とも書かれ,新村の前途を祝す意によるか(地名誌)はじめ旗本山内氏知行(諸家譜),元禄2年からは幕府領検地は元禄7年堤外の下谷原・千石原・広野・広谷・八百野【やおの】などにある流作場の検地は延享元年・寛政6年村高は「元禄郷帳」で483石余,「天保郷帳」492石余村の規模は東西3町・南北20町余化政期の家数62軒荒川水害防御のための水除堤が逆に東の台地縁辺より流れ入る水を湛水させ大きな障害となったこのためのべ3,222間の悪水堀を開削するとともに,荒川水除堤に下の圦樋・滝沼の圦樋・桶の圦樋などの悪水吐圦樋を設置したが,しばしば水害をうけた悪水路は百姓役による自普請所であるが,ほかは御普請所であった紀伊徳川家の御鷹場支配をうけ,鳥見役林八郎右衛門預り27か村の1つ助郷は中山道上尾【あげお】宿に出役幕末には大宮宿への加助郷を負担文政11年より上尾宿寄場64か村組合に所属主要道路は与野【よの】道・平方【ひらかた】道・川越【かわごえ】道鎮守は明現寺持の神明宮寺院は天台宗明現寺・福寿庵しかし村民は出自村の寺院を菩提寺としていた明現寺では江戸後期より寺子屋が開かれた同寺は享保期に創設された新秩父三十四か所札所のうち28番札所,福寿庵は29番札所であった高札場は村の中央小名は吉谷・二町田・中田明治4年埼玉県に所属同6年明現寺跡に公立小学校(宝来学校)が開校,生徒数95同7年上宝来村と合併して宝来村となる現在のさいたま市大字宝来のうち
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7287987
最終更新日:2009-03-01




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