勝呂村(近世)
江戸期〜明治22年の村名。男衾【おぶすま】郡玉川領のうち。古くは大河原郷猿尾荘に属したという。正保〜元禄年間に竹沢村が当村ほか5か村に分村して成立。竹沢6村の1つ。郷帳類には竹沢勝呂,「新編武蔵」には竹沢勝呂村と見える。はじめ幕府領,元禄11年からは旗本大島氏の知行。検地は寛文8年。村高は「元禄郷帳」「天保郷帳」ともに217石余。村の規模は東西20町・南北10町余。化政期の家数110軒。紙漉32軒,人口は473(横川家文書)。鎮守は白鳥明神社,寺院は天台宗西光寺。小名は十石山・小いじ・大楽地など。明治9年埼玉県に所属。同年の戸数83・人口163,馬30,荷車2。物産は繭・米・コウゾ・細川紙・大和紙・生絹など。水嚢(うどん揚げ)は当地の特産品で,寛永年間頃に杢兵衛が考案したと伝える。明治12年男衾郡に所属。同22年竹沢村の大字となる。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp
(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7288263
最終更新日:2009-03-01