ケータイ辞書JLogosロゴ 仙波(中世)


埼玉県>川越市

南北朝期から見える地名入東【につとう】郡のうちか地名は昔仙波仙人が海であった当地一帯を陸地に変えたことに由来するという(新編武蔵)武蔵七党の村山家継の子息家信は仙波七郎と号しており,「保元物語」には仙波七郎,「吾妻鏡」には仙波十郎・同平太などが見え,鎌倉期には当地を本貫地としたと思われる在地武士の活躍がうかがわれる地内の喜多院・中院・南院は天長7年慈覚大師の開山,永仁2年尊海の再建と伝える康暦2年卯月7日什覚の注記とある恵心流相承次第には「武州仙波ノ尊海ハ,上総国ノ人也」と見える(逢善寺文書/茨城県史料中世1)うち川越【かわごえ】を中心として近郷一帯は扇谷上杉家の支配を受け,福徳(延徳)2年3月2日の曽我豊後守に宛てた上杉定正書状写には上杉朝良のかたへ「山口・小宮・仙波・古尾谷,面々被越候」と見え,当地の仙波氏は扇谷上杉家に重用されていたと思われる天文22年3月18日〜同23年8月15日と弘治2年3月4日〜永禄元年3月9日と永禄5年正月〜11月にかけて仙波玉林坊の僧良芸らによって氷川女体神社大般若波羅蜜多経の補写が行われている(浦和市史2)「役帳」には御馬廻衆の沼野の所領として「五貫文 河越 仙波之内」,同中村幸松の所領として「拾貫文 川越 仙波之内 平七分 新三郎分」,河越衆の加藤太郎左衛門の所領として「四拾八貫文 此内 八貫文 仙波内日影分 四拾貫文 同所午検地増ニ分而被下」,勝瀬孫六の所領として「拾九貫文 仙波内天念寺分」,北院・中院・南院の寺領として「五拾五貫文 仙波之内」と見える永禄4年12年26日〜同6年正月にかけて中院の僧奝芸は武州大乱にあたり,岩付太田氏安穏のために氷川女体神社で大般若経を真読した(浦和市史2)同10年末から翌11年にかけて仙波中院の末寺三室(さいたま市)の吉祥寺が本寺中院に出仕せず,のみならず「恣大灌頂可有執行」であるとして多東郡深大寺(東京都)・高麗【こま】郡清光寺・河田谷泉福寺(桶川【おけがわ】市)・慈恩寺(岩槻【いわつき】市)・毛呂之郷正覚院などの書状に見えている(武文)のち元亀2年8月27日の大道寺駿河守宛ての上野【こうずけ】国世良田長楽寺尊慶書状によれば,仙波中院は「関東天台之本山」であり,「諸法度之儀,彼寺専一ニ候」として,吉祥寺が追放されたのは当然であるとしている(武文)このように当地には中院・喜多院・南院があるが,中世においては中院がその最も中心的な存在であったことがうかがえる江戸期には大仙波村・小仙波村が見え,いつの頃か分村したものと思われるまた中院の勢力は衰え,代わって喜多院が当地方の天台宗の中心となった現在の川越市大字大仙波・小仙波のあたり
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7288363
最終更新日:2009-03-01




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