ケータイ辞書JLogosロゴ 染谷村(近世)


埼玉県>さいたま市

 江戸期〜明治22年の村名。足立【あだち】郡南部領のうち。はじめ幕府領,寛永2年一部が岩槻【いわつき】藩領,同10年幕府領の一部が旗本朝比奈氏の知行,寛文元年幕府領の一部が旗本伏見氏の知行となり,天和元年からは幕府領と,旗本朝比奈・伏見両氏の相給。検地は慶長20年。村高は「田園簿」で41石余,うち田4石余・畑37石余,「元禄郷帳」65石余,「天保郷帳」では「古者染谷新田染谷村弐ケ村」と注記され206石余。村の規模は東西30町・南北6町余。化政期の家数40軒。水利の便が悪く「天水を湛て用水」とし,しばしば旱損に悩まされた。天明6年の物産は五穀のほか長芋・束芋・ダイコン・唐辛子・煙草など(村明細帳の研究)。特に長芋は南部長芋とよばれ江戸で好評を博し,文化年間より神田大和町に売捌所を設置して近郷村々と共同で出荷した。文政13年の長芋作付反別は1町4反余(大宮市史)。このほかの作物については元文2年明細帳に,米穀は岩槻町・鳩ケ谷【はとがや】町,前栽物は江戸下谷【したや】金杉や神田へ出荷したとある。紀伊徳川家の御鷹場支配をうけ,鳥見役八木橋七兵衛預り26か村の1つで,嘉永2年下総【しもうさ】小金原の猪鹿狩りには勢子人足を徴発された。助郷は日光御成街道大門【だいもん】宿に出役。寛保・宝暦年間には中山道大宮宿への代助郷を負担。文政11年大門宿寄場34か村組合に所属。農間渡世を営むものは文政年間渋屋4軒・居酒屋3軒・髪結1軒,天保年間には飴菓子商6軒・質屋3軒・草鞋商1軒があった(大宮市史)。鎮守は正覚院持の氷川社。神社はほかに石神社。寺院は曹洞宗常泉寺・本山派修験正覚院。常泉寺開山雪菴寿欽は大永3年没,中興開基は名主浅子大学。正覚院は古くは土蔵坊と称し,明治初頭寺子屋が開設されたがのち廃寺。小名は安養寺・金山・高儘・五町など。明治4年埼玉県に所属。同9年の戸数89・人口476,馬8。高畑村・辻村に飛地があった。物産は米・大麦・甘藷・白木綿・酒などで,その多くを出荷。明治12年北足立郡に所属。同22年一部は野田村大字上野田に編入され,残部は片柳村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7288396
最終更新日:2009-03-01




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