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「田中」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

田中


県中央部,都幾【とき】川上流の右岸の山間地に位置する...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7288603]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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田中荘【たなかのしょう】

(中世)平安末期~戦国期に見える荘園名

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

田中荘(中世)
平安末期~戦国期に見える荘園名常陸国のうち「吾妻鏡」文治4年3月17日条に「一,常陸国村田・田中・下村等庄事,或安楽寿院領云々,或八条院領,年貢可沙汰伺御倉候哉」と見える下村を下妻の誤記とすると,下妻荘は「和名抄」の新治【にいはり】郡下真郷を中心とした地域であり,村田荘は真壁郡大村郷辺に比定され,田中荘は筑波郡水守郷を含む以南の小貝川に至る地と考えられる「吾妻鏡」文治4年5月12日条では,上記の3荘はいずれも八条院領と決裁されており,田中荘は鳥羽天皇第三皇女八条院暲子に伝領された庁分荘園の一所である弘安田文の田数は「田中庄五百丁」であり(税所文書/県史料中世Ⅰ),嘉元田文には「一,下妻庄 三百七十町,一,同加納田中庄五百丁」と見える(所三男氏所蔵文書)嘉元田文の文言からみると,村田下荘とも称した下妻荘からの筑波郡域への出作により下妻荘域の東進拡大が進み,筑波南条内水守郷田中あたりまで公田の私領化が及んだといえる建武3年8月24日の九条道教家領目録案には「常陸国村田庄〈号下妻庄領家職〉同国田中庄〈号村田下庄領家職〉」とあるが(九条家文書),田中荘が村田下庄とも称したとするのは誤認である田中荘は村田荘・下妻荘との複雑な関係の中から生成発展した荘園である田中荘独自の推移をみると,同荘の最盛時,33か郷からなっていたという天正18年5月の豊臣秀吉禁制に「常陸国田中〈三拾参郷之本郷〉」とある(日枝神社文書)また,至徳3年4月29日の上杉朝宗充行状には「常陸国田中庄内小目郷」とあって,小目郷(谷和原村上小目・下小目)が荘域内であることから,33か郷は筑波郡の南北にのびる一帯と考えられる(正木文書/群馬県史)平安末期,田中荘域は常陸平氏本宗多気氏の本拠地であったが,建久4年常陸国守護となった八田知家は,筑波郡三村郷小田の地に本拠を据え,多気氏相伝の地を支配し(吾妻鏡),田中荘の地頭にはその子知氏(田中氏祖)を配したしかし田中氏は弘安8年の霜月騒動において没落し,地頭職は北条氏に帰属している元弘3年~建武2年頃と思われる足利尊氏・同直義所領目録によると,鎌倉末期の地頭は北条高時の弟泰家であった(比志島文書/神奈川県史)南北朝期,小田氏の総体的劣勢の中で田中荘は足利氏領として存続し,貞和2年5月10日の高師直施行状写に見えるように,田中荘四分の一地頭職は佐竹貞義に分与されている(密蔵院古文書/神奈川県史)また,この文書により,田中荘の経営は上杉氏などに委ねられていたといえるが不明の点も多い小田氏は応安年間,小田孝朝の代に一時荘務権を回復したが,元中3年に起こった小山若犬丸の乱への加担により再度所領は没収された諏訪大明神にあてた嘉慶2年5月24日の上杉朝宗寄進状や,同年6月の上杉朝宗充行状は,上杉氏の田中荘支配を示している(日輪寺文書/県史料中世Ⅰ)元中18年正月28日の源朝臣某寄進状,応永33年5月3日の梵方寄進状,正長元年12月25日の理恵寄進状,永享7年4月23日の某寄進状などは,15世紀前半における田中荘総鎮守日枝神社に関係する文書であるが(日枝神社文書),寄進主体の位置づけが難しい一方,応永13年11月3日の沙弥道栄充行状に見える道栄も上杉氏系の人物といわれ,上杉氏の支配は存続し(日輪寺文書/県史料中世Ⅰ),応永17年6月1日の憲直充行状案でも上杉氏と田中荘の関係を確認できる(沼尻隆氏所蔵文書/県史料中世Ⅰ)寛正4年10月5日の嘉昌書状案によれば,小田成治の田中荘押領を伝えているが,完全な旧領回復はできず,結果として小田氏の敗退に終わっている(日輪寺文書/県史料中世Ⅰ)しかし,小田成治発給文書には,田中荘に関係した感状・判物・寄進状・充行状があり,次代の政治,氏治の同荘への進出が予測できる永享13年2月1日,結城氏朝は六郎大夫に「常陸国田中庄玉取郷内てんなふ御神田,池田郷内かんとり免,倉持郷内大宮免」を安堵している(健田須賀神社文書/結城市史)小田政治は田中荘などで積極的に旧領回復を行い,南野荘惣社桑山社の造営に際し,荘内における勧進を認めているが(日輪寺文書/県史料中世Ⅰ),佐竹氏・結城氏・多賀谷氏の侵攻により天正年間には衰退したなお文禄元年3月日の大場大和他連署書状写に「氏治方土岐・菅谷,手賀城江湛々与忍入,可揚火手,謀略雖語以密儀,有壁耳泄云……結城・小山・真壁・下館領小田近所,洞下・須賀・田中之庄追日為兵乱之由有風聞,氏治帰陳之評儀専也」と見え,永禄年間頃の田中荘周辺の動向を伝えている(水府志料所収文書/県史料中世Ⅱ)熊野御師の活動も知られ,応永6年極月10日の旦那売券によれば,田中荘などの旦那職が売買されており,天文18年3月19日にも「田中庄一円海老嶋・大嶋」の旦那職が多門坊から勝逹坊に売却されている(潮崎稜威主文書/熊野那智大社文書)つくば市北西部から谷和原【やわら】村にかけた地域に比定される...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

田中村(近世)
 江戸期~明治23年の村名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

田中藩【たなかはん】
(近世)江戸期の藩名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

田中藩(近世)
江戸期の藩名譜代・小藩居城は駿河【するが】国益津【ましづ】郡田中(現藤枝市)関ケ原の戦後の移動により慶長6年酒井忠利が武蔵【むさし】川越領3,000石より1万石で入封して立藩同14年川越2万石へ転封同年~元和5年まで駿府藩主徳川頼宣の属城同年~9年まで番城寛永元年~9年まで駿府藩主徳川忠長の属城同10年松平(桜井)忠重が上総佐貫1万5,000石より2万5,000石で入封同11年5,000石加増同12年遠江【とおとうみ】掛川4万石へ転封同年水野忠善が下総山川3万5,000石より4万5,000石で入封同19年三河吉田4万5,000石へ転封同年松平(藤井)忠晴が2万5,000石で入封正保元年掛川3万石へ転封同年北条氏重が下総【しもうさ】関宿2万石より2万5,000石で入封慶安元年掛川3万石へ転封同2年西尾忠照が常陸【ひたち】土浦2万石より2万5,000石で入封延宝7年忠成が信濃【しなの】小諸2万5,000石へ転封小諸3万石より酒井忠能が4万石で入封天和元年忠能改易同2年土屋政直が土浦4万5,000石より4万5,000石で入封貞享元年大坂城代に就任,同地6万5,000石へ転封大坂より太田資直が5万石余で入封宝永2年資晴が陸奥【むつ】棚倉5万石余へ転封棚倉5万9,000石より内藤弌信が5万9,000石で入封正徳2年大坂城代に就任,同地5万9,000石へ転封大坂より土岐頼殷【よりたか】が3万5,000石で入封享保15年頼稔が大坂城代に就任,同地3万5,000石へ転封同年本多正矩が上野沼田4万石より4万石で入封以後正珍【まさよし】・正供・正温【まさはる】・正意【まさおき】・正寛・正訥【まさもり】と続いた寛文4年西尾忠成の時の藩領は,67か村で石高2万5,000石(寛文印知集)元文5年本多正矩の時の藩領は,67か村のうち27か村が除かれて,新たに42か村が加わり,大覚寺村が上・下2村分かれたため,計83か村で石高3万石,下総【しもうさ】国相馬・葛飾2郡のうち1万石の計4万石(郷村高附帳/藤枝市史)のち安永6年と天明3年に藩領の変更があり,志太・益津両郡のうち15か村が益津郡のうち8か村,駿東【すんとう】郡のうち6か村計14か村にかわった元禄初年太田資直の時の本知5万37石余,内高6万石余,年貢は6~8割,抨シ7割,「国家ノ仕置宣シ,米能ク生ジ,土地上也,仕置順路ナル故ニ,家民共ニ豊也」(土芥寇讎記)とある本多正矩の時の年貢は6割3分(藤枝市史)田中藩主は大坂城代に就任した土屋政直・内藤弌信・土岐頼稔,若年寄から側用人となった太田資直にみられるように,幕府の重職に就くものが多く,享保15年より定着した本多氏も,正珍が老中,正意が若年寄に就任している水野忠善は領内の整備と開発につとめ,上青島二つ山と瀬戸山の間に千貫堤を築いて大井川の氾濫から領内の村々を守った文化13年閏8月の暴風雨による被害を契機に,遠江および西駿河一帯に年貢減免を要求する一揆が起こった当藩では80か村余の農民が田中城下に押し寄せ年貢減免を要求,藩は10分の3の年貢を減免したが,一揆の指導者志太郡細島村増田五郎右衛門を処刑した天保8年本多正寛は水戸藩の弘道館の制にならって藩校日知館を創設教科は儒学・国学・医学・算術・武術であった長尾転封後の明治2,3年頃の藩士731人・家族1,594人(藩制一覧)慶応2年の江戸城詰席は雁之間,江戸上屋敷は神田橋御門内(吹塵録)明治元年安房【あわ】国長尾へ転封,廃藩駿河の藩領は駿府(府中・静岡)藩に所属...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

田中【たなか】
(古代~中世)平安期から見える地名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

田中(古代~中世)
平安期から見える地名添上郡のうち①北田中荘田中荘ともいう東大寺雑役免(香菜免)荘園平安後期の東大寺雑役免帳(東大寺要録6封戸水田章8)に「田中庄十町三段百八十歩 今吉」とある荘田は公田畠5町5段・勧学院田4町8段180歩からなる康和5年の今吉負田検田帳(東大寺文書/平遺1530)によれば「添上郡北田中今吉負田」として定田畠4町7段180歩(造畠4町2段180歩・水田5段)と諸不輸田・損田5町2段を掲げる諸不輸田の内訳は一品田3町・天量院田1町・伝法院田3段今吉負田は添上郡京南3条2・3里,4条3里にわたる合計17か坪にほぼ一円的に分布したこの坪付はほぼ現在の大和郡山市番匠田中町付近にあたる当荘は本来大和国司が公田(今吉名)の所当公事・臨時雑役を免除して,東大寺大仏の御菜を献進させたことに由来し,御菜のほか造大仏殿人夫役・比曽縄役などを東大寺に勤仕する定めであった永久年間ごろには興福寺の押妨を被るようになり,東大寺から朝廷に訴えられている(東南院文書・京都大学所蔵東大寺文書・保坂潤治氏所蔵文書/平遺1852・1854・1856・1857)久安4年9月25日付雑役免顛倒荘注進状(東大寺文書/平遺2654)には「北田中荘内四町〈十町内〉募勧禅院威,不勤寺役之」と記すまた平安後期には一国平均役を国衙から賦課されることがあり,大治2年には防河人夫役,平治元年には野宮柴垣役などを勤仕した(京都大学所蔵東大寺文書・東大寺文書/平遺2113・3022)なお嘉禄2年12月27日付勧学院政所下文案(東大寺文書/鎌遺3558)では一品位田の所在坪として「(三条二里)廿七坪・廿八坪・卅三坪〈田中荘〉」と記すこの坪付は北田中今吉負田の一品位田とほぼ一致するまた保延元年5月15日付平資宗田地売券(春日神社文書/平遺2322)をはじめとして鎌倉期に至る連券には,田地の在所として「合壱段四十歩者〈字田中荘之内〉在大和国添上郡京南三条三里四坪」などとあり,この坪付は北田中今吉負田と一致して,現在の大和郡山市番匠田中町のうちにあたる南北朝期には源忠法眼に押留されて転倒している(文和2年東大寺領大和国散在田地并抑留交名注文/東大寺文書)②南田中荘東大寺雑役免(香菜免)荘園平安後期の東大寺雑役免帳(東大寺要録6封戸水田章8)に,田中荘と並んで「同田中庄十町五段三百歩」とある公田畠7町4段300歩と不輸租田3町1段からなり,不輸租田の内訳は一品位田1町8段・勧学院田8段・伝法供田5段大治2年の雑役免防河人夫支配状案(京都大学所蔵東大寺文書/平遺2113)に「南田中々五人」,平治元年の雑役免野宮柴垣支配状(東大寺文書/平遺3022)には「南田中庄二尺二寸」とあり,平安後期にはしばしば国衙から一国平均役を賦課された南北朝期には櫟庄次郎入道という者の抑留を被って転倒している(文和2年東大寺領大和国散在田地并抑留交名注文/東大寺文書)なお当地は衆徒番条氏の一族番条田中氏の本拠地であった(経覚私要鈔長禄4年3月朔日条,寺社雑事記明応5年2月20日条など)番匠田中村文禄検地帳(天理図書館所蔵文書/大和郡山市史史料集)によれば田畠10町7反7畝23歩,分米156石8斗6升興福寺寺門領であった(京大一乗院文書)...

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田中村(近代)
 明治23年~昭和29年の自治体名...

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田中郷【たなかのごう】
(中世)平安末期~室町期に見える郷名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

田中郷(中世)
平安末期~室町期に見える郷名新田郡新田荘のうち仁安3年6月20日の新田義重置文(正木文書/県史資料編5)によれば,「らいわうこせ」に母の孝養を尽くすことを命じるとともに,「こかん(空閑)」の郷々を母に譲ると定めているが,その中に「たなか」が見える空閑は義重が開発した私領であり,これらの空閑が最初の新田荘の実体であったと考えられる下って,元久2年8月日の将軍源実朝下文案(同前)によれば,実朝は新田義兼を新田荘内12か郷の地頭職に補任したが,その中に「田中郷」が見えるさらに,建保3年3月22日の将軍(源実朝)家政所下文(同前)によれば,義兼後家を夫の譲状によって当郷など3郷の地頭職に補任している長楽寺系図によれば,岩松時兼の弟時明の子持国が田中と号しており,「尊卑分脈」によれば,里見義俊の子義清も田中二郎と称している(県史資料編5)岩松時兼・時明は足利義純と新田義兼の女の間の所生で,義兼後家は多くの所領を時兼に譲ったことが「正木文書」からも知られ,当郷もこのようにして岩松氏一族の所領となったものと考えられる現在新田町上田中に長慶寺があるが,ここは館跡であり,田中氏の館という嘉暦3年6月1日の世良田満義寄進状案(長楽寺文書/県史資料編5)によれば,長楽寺に満義の知行分である新田荘内小角田村の田および在家1宇を寄進したが,そのうち7反の田に「号塚田,堺田中」との注記がある現在尾島町小角田の北側に下田中があり,これをさしたものであろうまた同年10月8日の了重寄進状案(同前)にも同じ在家・田が記されている下って,文和2年3月19日の足利尊氏寄進状(同前)によれば,長楽寺塔頭普光庵に「田中郷内田弐町・畠弐段〈大類五郎左衛門尉後家尼了覚知行分〉」および「同郷内田九段〈田中五郎三郎経氏知行分〉」などを寄進しているなお年月日未詳の頼阿女寄進状(同前)はこれに関連するものと考えられ,頼阿女は親父の譲りによって得た所を普光庵に寄進したが,それは「田中郷内」の「辻の四郎太郎か西ニ田四反,鶴か沢の西ニ畠参段,同郷柳宮西ニ田五反」であったという頼阿は系図によると田中経氏に当たると推定され,了覚も田中一族と考えられる享徳年間以降と推定される年月日未詳の新田庄知行分目録および同じく年月日未詳の新田庄内岩松方庶子方寺領等注文は新田荘内の所領関係を示したものであるが,その中に田中民部大輔知行分として「田中郷四ケ村」が記されている新田荘では当初からあった郷に対し,その後の生産力の発展によって開発されたものを村と称しており,当郷は鎌倉期以降の開発によって拡大・発展したのであろう戦国期では,天正18年4月日の豊臣秀吉禁制(長楽寺文書/県史資料編5)では,「田中」以下8か所の地に禁制を出しているこの年小田原北条氏を攻めた豊臣軍の部隊がこの地方に進出したものである現在の新田町上田中・下田中に比定される...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

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