ケータイ辞書JLogosロゴ 奈良瀬戸村(近世)


埼玉県>さいたま市

 江戸期〜明治22年の村名。足立【あだち】郡大谷【おおや】領のうち。古くは吉野領に属し,岩付太田氏の領地と伝える。はじめ幕府領,寛永2年岩槻【いわつき】藩領,天和2年からは再び幕府領。検地は元禄7年。村高は「田園簿」で300石余,うち田101石余・畑198石余,「元禄郷帳」「天保郷帳」ともに345石余,以後変化なし。村の規模は東西7町余・南北15町余。化政期の家数50軒。田は天水場で摘田が行われており,余水は鴨川や逆川へ落としていた。「天水の場にて旱損あり,又久霖の時は加茂川より悪水を入て,水腐せることもあり」(郡村誌)とあるように,鴨川はしばしば出水し田畑を冠水させた。紀伊徳川家の御鷹場支配をうけ,鳥見役松本万右衛門預り28か村の1つ。寛政11年土呂【とろ】村野原の猪鹿狩りには14人の勢子人足を徴発された。助郷は中山道上尾【あげお】宿に出役。文政11年より上尾宿寄場64か村組合に所属。主要道路は川越【かわごえ】道と与野【よの】道。与野道は鎌倉道とも加村【かむら】往還ともよばれた。鎮守は宝姓寺持の氷川社,明治40年社名を武国神社と改称。ほかに神社は稲荷社3社・熊野社2社。寺院は,新義真言宗松林寺・宝蔵寺・宝姓寺。松林寺では明和年間に寺子屋が開かれており,宝姓寺は享保年間に創設された新秩父札所の19番札所であった。高札場は村の東部。小名は三貫清水・本村。明治4年埼玉県に所属。同9年の戸数52・人口293,馬23,荷車9。西谷・上加【かみか】両村の間に飛地があった。物産は米・小麦・甘藷などで,川越や鴻巣【こうのす】などに出荷。明治12年北足立郡に所属。同22年宮原村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7289199
最終更新日:2009-03-01




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