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「新堀」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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新堀村(近代) 明治22年~昭和30年の稗貫郡の自治体名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
新堀村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
新堀【しんぼり】 (近世)江戸期~明治22年の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
新堀村(近世) 江戸期~明治11年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
新堀(近世) 江戸期~明治22年の町名江戸期は唐津【からつ】城下の1町城下町の東部,松浦川河口の左岸に位置し,西は材木町,東は船宮町と接する初代唐津藩主寺沢志摩守広高は築城時に松浦川河口左岸に水軍の基地として船宮を設け,その周辺に水主たちを集住させたが,当町もその1つで,御用地とされた町域は郷村支配をうける唐津村の一部をなし,近世初期には地子が課せられたが,のちには地子が免除され城下十七か町と同格並みに扱われるようになったたとえば,下駄,傘,踏物,節句の幟,盆祭の踊りは郷村では禁じられていたが,「水主町・新堀・海士町丈は町並通御見逃の事」(節倹ケ条書/唐津市史)として町並みの扱いをうけている近世初期の寺沢氏時代には船奉行支配の常備的な御水主の居住地であったが,寺沢氏の改易により水主役は日雇的な日高水主役となったため,次第に,一般町人も居住するようになった正保5年の家数は22(唐津市史)文化年間頃の家数26・人数116(男64・女52),穀船2・川船23があった(松浦拾風土記)川岸には土場や桝形の堤防が設けられていた西端に渡し場があり,松浦川の対岸満島の間に渡し船が通り,にぎわいをみせた船着場であったため,松浦川を上下する荷船の船頭も多く居住しており,頭取は神田家であった地先の松浦川に築島があり,イゲ様という祠が祀られ,毎年夏に川祭りが行われた明治4年大区小区制実施の際に郷方の唐津村から離れて唐津町方に編入された「明治11年戸口帳」によれば,唐津町のうちに「新堀」と見え,戸数29・人口114廃藩後水主町の住人が数多く移住したが,彼らは水主町の住民であることを主張したため,水主町との境界が判然としなくなった明治以降漸次川岸が埋め立てられ,土場や桝形の堤防,またイゲ様のあった築島も地続きとなり,江戸期の様相は消えたイゲ様も祠は新堀稲荷社境内に移されている明治22年唐津町唐津の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
新堀川【しんぼりがわ】 阿武(あぶ)川河口の萩三角州上にある人工水路... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
新堀【しんぼり】 (近世~近代)江戸期~昭和51年の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
新堀北ノ丁【しんぼりきたのちょう】 (近世~近代)江戸期~昭和51年の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
新堀(近世~近代) 江戸期~昭和51年の町名はじめ1~8丁目,昭和49年からは6~8丁目がある江戸期は和歌山城下吹上のうちの町人町で,明治12年和歌山区,同22年からは和歌山市の町名となる文政13年,新堀川東端井原端から堀止に至る同堀川南岸の新堀東之丁と同丁から和歌道西部に続く新堀西之丁を合わせ,新堀1~8丁目と改称した(御城下内町名唱替御通し写/秦野家文書)文政13年の此度丁名相増又者相改候略図(田中家文書)には「新堀通り惣間五百八間余」とある東端の井原橋は古くは「新橋」と見え(元禄城下町図),1~5丁目の新堀川南岸は「新堀河岸」と呼ばれて(安政城下町図),吹上武家屋敷への物資を陸揚げする場であった1丁目地尻には曹洞宗万年山久昌寺,2丁目地尻には日蓮宗覚王山妙宣寺がある西端8丁目には寛永12年城地より移したと伝える神明社が祀られている(続風土記)明治6年には,1丁目の戸数28,男66・女54,2丁目の戸数34,男62・女70,3丁目の戸数18,男36・女32,4丁目の戸数33,男48・女70,5丁目の戸数19,男27・女31,6丁目の戸数44,男79・女93,7丁目の戸数59,男104・女118,8丁目の戸数31,男58・女58大正2年では合計143戸・646人昭和20年7月の空襲ではその被害を免れた第2次大戦後,6丁目に同年9月から同24年まで米国防諜部和歌山県本部が置かれた同49年一部が新堀東1~2丁目・堀止南ノ丁となり,残余は同52年1月1日堀止西1~2丁目となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
新堀村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
新堀北ノ丁(近世~近代) 江戸期~昭和51年の町名明治2年1~4丁目,同8年からは1~3丁目がある江戸期は和歌山城下吹上のうちの町人町で,明治12年和歌山区,同22年からは和歌山市の町名となる文政13年に「同(新堀)堀留より井口源次右衛門屋敷横折廻し」の地が新堀北ノ丁となり(御城下内町名唱替御通し写/秦野家文書),和歌道沿いの「凡十八間」と西に折れた「凡三十九間半」を町域とし(此度丁名相増又者相改候略図/田中家文書),町奉行支配となった道を隔てた北側,和歌道沿いには奥詰井口源次右衛門(300石)屋敷,その西には城代同心屋敷があった(安政城下町図)明治2年諸同心地に町名を付することになり,町人地であった新堀北ノ丁を1丁目,隣接同心屋敷地のうち,元城代南組を2丁目,同北組を3丁目,元五番組を4丁目とした(町大年寄御用留/和歌山市史5)明治6年には,1丁目の戸数19,男27・女35,2丁目の戸数61,男109・女114,3丁目の戸数71,男132・女140,4丁目の戸数36,男63・女65同8年4丁目が今福村に編入され,1~3丁目となる同30~40年に陸軍の命によって各種気球・飛行船を発明,製作した山田猪三郎は文久3年に城代南組(2丁目)で生まれた顕彰碑は新和歌浦に建立されている昭和20年7月の空襲では被害を免れ,今も狭い道筋などに旧同心屋敷の雰囲気を残している大正2年の戸数103・人口456昭和52年1月1日堀止西1丁目となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」