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広野村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
広野村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
広野(近代) 明治22年~昭和30年の阿野村の大字名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
広野村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
広野新田村(近世) 江戸中期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
広野新田村【ひろのしんでんむら】 (近世)江戸期~明治9年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
広野新田村(近世) 江戸期~明治9年の村名山新田村ともいう庄内地方,庄内平野北部,鳥海山西麓に位置する地名の由来は,当村開発以前の当地が広々とした野であったことによる飽海【あくみ】郡のうち庄内藩領遊佐郷に属す往古は大畑・小畑と称される所にも民家があったという貞享2年春から翌3年の3月にかけて下野沢村左平次が広野を開墾し,高6石,家数8軒となって左平次新田と称したこの左平次新田はその後荒廃し,高は下野沢村に替え地を命じられた宝暦7年鶴岡の村上文七郎は,稟請して一度荒地に化した左平次新田の再開発を計画し,翌8年杣取小屋を建てて平田郷中野俣村喜右衛門・同郷海ケ沢村専五郎に任せたその結果,翌9年春に移住した家は13軒となったその後この開発について反対があったため,翌10年両者協議の上,ねこや沢・かなひら沢・ひるが淵・ががらいしと称する4か所を植付区域に定めたそのため経営不良で,明和6年頃には家数も2~3軒となり,その後荒廃し亡所となった寛政12年郡代白井矢太夫が上野新田村を開発した時,当村も再興した(飽海郡誌)幕末期の「弐郡詳記」によれば無高,家数3軒鶴岡県を経て明治9年山形県に所属同年藤井新田村・上野新田村と合併して白井新田村となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
広野村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
広野村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
広野新村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
広野大神社【ひろのだいじんじゃ】 児玉郡神川町肥土(ひど)に鎮座... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」