- JLogos検索辞書>
- 堀米村(近世)とは
「堀米村(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- amazon商品リンク
堀米村(近世) 江戸期~明治8年の村名河内郡のうち堀込とも書く田川中流左岸沿いの沖積地に位置する地名の由来は田川の水を得るため堀を開削したことによるか低地のため,水利には恵まれたが,たびたび水害にもあった「元禄郷帳」「天保郷帳」では関沢村枝郷と見える宇都宮明神領村高は,「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに186石余「改革組合村」では瓦谷村組合寄場に属し,天保年間の家数15用水は田川から引水した村民は神領百姓として誇りが高く,宇都宮大明神の祭礼に田楽舞を奉納したり流鏑馬に参画するなど種々の神事に携わった鎮守は天神5代地神7代を祀る十二所神社寺院は新義真言宗智山派の白沢明星院の末寺玉蔵院があったが,明治5年廃寺となる安政年間,国学者梅園春男は当村に私塾を開き,近郊の向学の士に学問を教授して多くの人材を世に送った明治4年宇都宮県を経て,同6年栃木県に所属明治8年関堀村の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
堀米村(近世) 江戸期~明治8年の村名那須郡のうち那須扇状地の扇端部に位置するはじめ大田原藩領,幕末は旗本久世氏知行村高は,「元禄郷帳」4石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに7石余「改革組合村」では大田原宿組合寄場に属し,天保年間の家数4助郷は奥州街道大田原宿の定助郷を勤め,勤高4石余明治4年宇都宮県を経て,同6年栃木県に所属明治8年小滝村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」