ケータイ辞書JLogosロゴ 御蔵村(近世)


埼玉県>さいたま市

 江戸期〜明治22年の村名。足立【あだち】郡南部領のうち。はじめ幕府領,寛永2年からは旗本松野氏知行。検地は宝永2年,村高は「田園簿」で88石,うち田34石余・畑53石余,「元禄郷帳」88石,「天保郷帳」128石余,宝永4年の検地帳では御蔵白岡村として186石余,うち田49石余・畑136石余(大宮市史)。村の規模は東西5町余・南北10町余。化政期の家数66軒。特産物は長芋と柿渋で,ともに江戸へ出荷され,南部長芋・赤山渋として好評を博した。文政13年の長芋作付反別は3町2反余,文政3年の渋屋渡世は5人(大宮市史)。幕末期には紅花を桶川【おけがわ】宿方面へ出荷。紀伊徳川家の御鷹場支配をうけ,鳥見役八木橋七兵衛預り26か村の1つ。嘉永2年下総【しもうさ】小金原の猪鹿狩りの際は13人の勢子人足を徴発された。助郷は日光御成街道大門【だいもん】宿へ出役。寛保・宝暦年間には差村され中山道大宮宿へ代助郷を負担。文政11年から大門宿寄場34か村組合に所属。天保年間に農間余業をするもの飴菓子4軒・紙漉1軒・質屋1軒の渡世があった。大竹市郎右衛門家は地頭松野氏の旗本代官。村内字大ケ谷戸には方形の土塁と空濠の跡を一部残した松野氏の旧館址がある。松野氏は岩付太田氏の旧臣で当村が本貫地。この館址の東側に市道【いちみち】と鎌倉街道が残っている。市道は室町期の成立と思われる市場之祭文に「武州足立郡片柳市祭成之」(武文)とある片柳市の跡と伝えられ,市神様がある。主要道路は岩槻【いわつき】道。鎮守は愛宕社。神社はほかに神明社・錠殿社・鍵殿社。錠殿社と鍵殿社は,往古屯倉所用の錠と鍵を神格化し奉じた社殿が,いつの頃にか荒廃したため文政年間に土地の人々が石造りの小社に再建したという。寺院は新義真言宗真蔵院。高札場は村の中央。小名は榎下・山中・陣屋前・篠下など。明治4年埼玉県に所属。同9年の戸数78・人口442,馬18。中野・中丸・新井新田のうちに飛地があった。物産は米・大麦・小麦・甘藷などで,米・甘藷を出荷。明治7年白岡村を合併。同12年北足立郡に所属。同22年片柳村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7290390
最終更新日:2009-03-01




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