ケータイ辞書JLogosロゴ 百間(中世)


埼玉県>宮代町

 室町期から見える地名。埼玉郡太田荘のうち。初見は姫宮神社の応永21年3月日の鰐口銘で「武州太田庄南方百間」と見える(大日料7-21)。戦国期には天文22年正月の地内西光院の所蔵になる鰐口銘に「武州太田庄南方百間山光福寺」とあり,西光院は当時光福寺とよばれたことがわかる。西光院は小田原北条氏の保護を受け,永禄13年2月20日の北条康成書状や,天正14年3月11日の太田氏房判物が現蔵されている(武文)。百間の領主は鈴木雅楽助で,元亀3年正月9日の北条家印判状では鈴木雅楽助が「八貫二百五十文 百間之内」を所領し,着到を定められている。天正10年以後は岩付城(現岩槻【いわつき】市)の太田氏房の家臣となり,当地は岩付御領分であった。天正16年正月5日の太田氏房印判状では,豊臣秀吉の来攻に備えて兵糧米を「百間百姓中」から徴収し,岩付城に搬入することを厳命されている(武文)。なお北条氏滅亡後の天正19年11月の徳川家康寺領寄進状に,百間が「武州太田庄之内」になっており,近世初頭まで太田荘内であったことがわかる(西光院文書)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7290690
最終更新日:2009-03-01




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