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谷中村【やなかむら】 (近代)明治22~39年の下都賀郡の自治体名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
谷中郷【やなかのごう】 (中世)鎌倉期~室町期に見える郷名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
谷中郷(中世) 鎌倉期~室町期に見える郷名下総国八幡荘のうち正和3年4月26日付日高譲状に「谷中郷内紀平三名」とあり,他の寺領とともに中山法華経寺2世日高から3世日祐に譲与されている元応2年12月1日には千葉(千田)胤貞が「下総国八幡庄谷中郷内」の神田2町を同寺に寄進した(中山法華経寺文書/市川市史5)胤貞は日祐養父で,法華経寺の前身である本妙寺・法華寺の外護者文和2年7月16日付法華寺免田畠坪付注文には当郷内1里1坪,3里2~4・7・12坪の田地9反300歩と畠地1処を揚げるが,これは胤貞の寄進地であった(肥前光勝寺文書/同前)また応永4年6月8日の4世日尊譲状には郷内寺領として「高国名一町三段・在家」と「徳重名内在家」がある(顕実寺文書/同前)郷内には,中山村(法華経寺蔵多宝如来坐像建武2年3月6日付銘文/県史料金石2),若宮戸村(中山法華経寺文書嘉暦4年7月8日付寂恵寄進状/市川市史5),高石神村(中山法華経寺文書永享3年12月24日付原胤義売券/同前)があり,法華寺は若宮戸村,本妙寺は中山村に所在したなお享徳5年6月14日付原胤房安堵状は「八幡庄□□屋中村并秋山村等」の真間山根本寺領を安堵している(弘法寺文書/同前)永享10年日親撰「折伏正義抄」には千葉氏の所領とある現在の市川市若宮・中山・高石神付近にあたる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
谷中本村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
谷中本村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
谷中村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
谷中三崎町【やなかさんさきちょう】 (近世~近代)江戸期~昭和41年の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
谷中新田【やなかしんでん】 (近世)江戸期~明治8年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
谷中三崎町(近世~近代) 江戸期~昭和41年の町名三崎の読み方は普通「みさき」であるが,この場合は「さんさき」である起立年代ははっきりしないが,「元禄年中中堂御建立有之候に付中堂領に相成,御年貢地にて御目代田村権右衛門支配所に御座候」(備考)とあるので,元禄年間,あるいはそれ以前であろう延享2年町奉行支配となる町名の由来は3説あり,第1説は駒込【こまごめ】・田畑・谷中の3つの高台にちなむ(備考・府志料),第2説は忍の岡(上野)・向の岡(本郷台)・入砂の岡(谷中)があり,往古東京湾の入江で3つの岡が連なっていたのによる(望海毎談),第3説は「往古は不忍池に連なる大流水の岬なるより名付けしならん」(画報),などがある野中の清水があって,その水で作ったところてんが名物であった文政11年の家数61軒(町方書上)明治元年東京府に所属明治初年近隣の6か寺地を併合,同4年南北に2分されたが,同6年旧に復した同5年の戸数78・人口304(府志料)同11年下谷【したや】区に属し,同24年谷中初音【はつね】町3丁目・谷中村の各一部を併合昭和22年からは台東区に所属同42年現行の谷中3~5丁目の各一部となった... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
谷中新田(近世) 江戸期~明治8年の村名塩谷郡のうち喜連川【きつれがわ】丘陵西南の洪積低台地上に位置する付近にはおつぼね沼などの沼沢や湧水があり,また井沼川の水源地に当たる地名の由来は,谷が浅く入り込んだ低湿地であることにちなむという延宝3年,新田村として開発された「元禄郷帳」「天保郷帳」では狭間田村枝郷と見える宇都宮藩領村高は,「元禄郷帳」45石余,安永3年村差出明細帳56石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに57石余安永3年の反別は39町6反余,うち田15町7反余・畑23町9反余,家数24・人数114,うち男69・女45,馬数8(村差出明細帳)「改革組合村」では氏家・白沢宿組合寄場に属し,天保年間の家数12,慶応4年の家数23,うち本百姓18・半軒百姓1・分地百姓3・水呑1,寮1軒,人数87,うち男31・女56,馬数4神社は星宮神社があり,祭神は経律主命地内には,お旗塚古墳があり,伝説によれば,源義家が奥州遠征の途中,この塚に戦勝祈願し源氏の白旗を埋めたことからお旗塚とよばれるようになったという明治4年宇都宮県を経て,同6年栃木県に所属明治8年狭間田村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
谷中村(近世) 江戸期~明治24年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」